新近江名所圖会 第135回 千々の松原-松原水泳場-

(彦根市松原町)

 千々(ちぢ)の松原は、彦根市が市民に公募して平成7年に選定された新名所琵琶湖八景の1つです。新名所琵琶湖八景にはこのほかに、彦根城、夢京橋キャッスルロード、芹川堤けやきみち、荒神山、石寺・多景島、佐和山、中山道があります。松原の浜は、彦根港から米原市磯山までの約1kmにわたって広がっています。水泳場として親しまれているほか、夏には鳥人間コンテストの会場となり、冬には琵琶湖に吹く強い風でウインドサーフィンを楽しむ人たちで賑わいます。

松原水泳場

松原水泳場

 松原の浜は、松原をとりまく特徴的な地形により形成されました。松原の北には磯山、東側には佐和山、南側には彦根山があります。鈴鹿山系から流れ込む河川により運ばれた土砂は、琵琶湖の湖岸に扇状地や三角州を形成します。松原付近では、その土砂の堆積は磯山・佐和山・彦根山に遮られるため遅れます。そのため、松原の浜と松原内湖が形成されました。松原内湖は昭和23年(1948)の干拓により、現在のように農地が広がる景観になりました。現在見られる松原の景観は、人が変化させてできた景観なのです。景観の変遷は、現在の松原を知るうえでも重要ですから、時間をさかのぼりながらたどっていきたいと思います。
 明治4年(1871)に描かれた「犬上郡松原村絵図」によると、松原の浜(汀)は彦根城から磯山の麓まであったようです。浜の南には琵琶湖と松原内湖を結ぶ水路があり、そこに松原湊がありました。水路沿いには彦根藩の御浜御殿や家老屋敷、水主衆の屋敷、春日神社が立ち並び、その北には農地が広がっていました。浜提には水路がもう1本通っていました。絵図からは、松原の浜の距離は現在よりも長く、また水路も埋め立てられたことがわかります。
 彦根城築城以前の景観も、「彦根御山絵図」に残されています。この絵図は左右に分かれています。製作後、加筆・修正が加えられているので必ずしも正確ではないそうです。左側の絵図は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い頃の関ヶ原の戦い直後を描いたものとされています。芹川はまだ松原内湖にそそいでいます。松原の浜堤は内湖と琵琶湖を結ぶ4本の水路により分断され、松原と対岸の佐和山の麓は百閒橋でつながっています。右側の絵図は永禄年間(1558~1570)の景観を描いたものとされています。芹川は二又に分岐して松原内湖にそそぎ、松原に水路は1つしかありません。彦根城の築城前後でも、景観が大きく変わっています。芹川は彦根城築城の時に付け替えられています。水路の数や百間橋の有無など、明治期と比べても大きく景観が変化していることがわかります。
 現在は1キロほどしかない松原の松林も、かつては3里(約12km)にわたり広がっていたともいわれています。磯山の麓から彦根城までの距離はおおよそ2㎞ですから、松原を含めて湖岸には砂浜がどこまでものびていたのでしょう。千々の松原は千松原(せんまつばら)ともいわれていました。千松原の呼び名は、大嘗会に献上する大嘗祭和歌製作のために提出された、近江国の地名の1つです。現在の彦根市松原町から磯山までの湖岸と考えられています。この地名の記録は、『山槐記』の元暦元年(1184)9月15日の条に、残されています。したがって、少なくとも12世紀頃には松原の広がる風景はあったと思われます。大切な儀礼のために献上する和歌の地名として提出されるほどの美しい松原の風景が広がっていたのです。
 さらに時間を遡ると、松原にはどんな景観が広がっていたかは詳しくはわかっていません。周りの山々の在り方はそれほど変わっていないと思われます。鈴鹿の山々から土砂はどんどん運ばれてきますから、その土砂の量を差し引いていくと、縄文時代の頃は、松原の浜はもっと幅が狭くなり、途切れていたのかもしれません。人の力が景観に及ぼす影響もごく小さかったでしょう。松原内湖は縄文人にとって重要だったらしく、人の生活の痕跡は、松原内湖遺跡(彦根市)やお隣の米原市にある磯山城跡・入江内湖遺跡などに残されています。これらの遺跡からは、縄文時代早期の土器が出土していますから、今から8,000年くらい前から人が生活していたことがわかります。このような湖岸・湖底に残された遺跡には、地下水のおかげで普通は腐ってなくなってしまう動物の骨や植物の葉や実、木材などが形を保ったまま残っている場合があります。松原内湖遺跡では狩猟に用いた石鏃や弓が出土していて、入江内湖遺跡では水辺を移動するための丸木舟や櫂、漁労で使用した釣り針や石錘、狩猟に用いた石鏃が出土しています。入江内湖遺跡からは、食べた後の魚や動物の骨も出土しています。これらの生活の道具や動物の骨から、入江内湖・松原内湖の縄文人は、狩猟・漁労・採集を組み合わせて生活していたことがわかりました。

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松原水泳場のカモ

松原水泳場のカモ

松原水泳場のカモメ

松原水泳場のカモメ

 松原内湖や入江内湖の縄文人たちは、ガン・カモといった冬の渡り鳥も狩猟の対象としていたようです。冬の渡り鳥は現在でも琵琶湖に多く訪れます。私も双眼鏡片手に、彦根城のお堀から湖岸沿いに松原まで歩いて、バードウオッチングを楽しみます。野鳥を愛する鳥好きの方にかわいい野鳥を食べるお話をするとおしかりを受けるかもしれません。もちろん現代の私たちが自由に渡り鳥を捕って食べることはできませんが、野鳥を観察するときに松原の景観が自然や人の手でどう変化したのか、縄文時代の人たちが行っていた狩りや食生活の様子をイメージしていただけると、少し違ったおもしろさでバードウオッチングが出来るかもしれません。
 寒さが厳しいので暖かい服装で足を運んでください。松原の鳥たちは比較的警戒心が薄いので、かなり近づいて観察できますよ。

 併せて・・・、現在滋賀県埋蔵文化財センターで2012年11月8日より開催されている『縄文人が語るモノ-モノからみた縄文時代の生活-』では、滋賀県域の縄文時代の人たちがどんな生活を送っていたのかをイメージできるように、「食」「生業」「祈り」をサブテーマにいろいろな資料を展示しています。縄文人が食べたあとの鳥の骨も展示しています。寒い日が続きますがこちらも是非足をお運びください。

アクセス

【公共交通機関】JR琵琶湖線彦根駅下車、車で3分
【自家用車】名神高速道路彦根ICから10分 駐車場:普通車80台(市営:700円)

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参考文献

滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会編著(1992)『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅱ』
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会編著(2007)『入江内湖遺跡Ⅰ』
彦根市史編集委員会(2007)『新修彦根市史 第1巻 通史編 古代・中世』
彦根市史編集委員会(2011)『新修彦根市史 第10巻 景観編』
彦根市史編集委員会(2003)『彦根 明治の古地図 三』

(加藤達夫)

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