新近江名所圖会 第156回 白洲正子が愛でた沖つ島山 -沖島その2-

(近江八幡市沖島町)

沖島の家並み

沖島の家並み

 沖島については、第55回でも紹介しましたが、今回は少し違った視点から見てみたいと思います。
 沖島は、近江八幡市伊崎の沖合、琵琶湖の中央部東岸寄りにある琵琶湖最大の島です。島の周囲は約12㎞、面積約1.5k㎡を測り淡水湖の中で人が暮らす島としては国内で唯一です。現在約140世帯、約400人の人々が暮らしておられます。保元の乱(1156)に敗れた源氏の落人によって開拓されたとの伝承もありますが、周辺の湖底からは、縄文土器や弥生土器・和同開珎などが採集されていますので、縄文時代から対岸と往来があったと考えられます。また、島の一角には、『延喜式』神名帳に記載のある奥津島神社が鎮座していて、和銅年間(708~715)に近江国守であった藤原不比等が創建したと伝えられています。
奥津島神社

奥津島神社

 島を南北に貫く尾根上には、中世城郭とみられる頭山城・尾山城・坊谷城の三城が知られていますが、発掘調査が行われていないため、構造や築城時期は不明です。室町時代の沖島は、琵琶湖の対岸に位置する堅田の支配下にあり、通過する船から関銭を徴収する湖上関が置かれていました。戦国時代は、湖上交通の要衝に位置するため、沖島の支配は佐々木六角氏・浅井長政・織田信長とめまぐるしく変転します。江戸時代には、村高25石でした。そのうち彦根藩が15石、対岸の天台宗伊崎寺が10石を領し、村高のうち10石1斗6升を海年貢として漁獲物を納めていて、漁業を生業とする島でした。
採石場跡を利用した菜園

採石場跡を利用した菜園

 沖島は、花崗岩により形成されています。山腹に露頭する岩石は石材として良質であるため、江戸時代には切り出して船運を利用して島外に販売していました。明治時代には湖上交通の利点を活かして、琵琶湖疏水や南郷洗堰・東海道線などの建設に使う石材として販売し、その収益は自治会経費や対岸の農地の購入費用に充てていました。しかし、昭和期に入ると競争力を失い、昭和45年(1970)に採石の歴史は終焉を迎えます。島には耕作可能な平地がないため、採石場の跡地は、今では菜園として利用されています。
 島民の多くは漁業に携わっていて、定置網や沖引網・刺網・貝引網・底引網など多様な漁法を駆使して、アユ・フナ・ゴリ・イサザ・ハス・モロコ・エビ・シジミなどを捕っています。一方、島民の多くは対岸の農地へ出作もしていて、漁業だけでなく農業にも従事する兼業農家でもあります。

おすすめPoint

沖島のメインストリート

沖島のメインストリート

 沖島へは船で渡りますが、対岸の港から島を望みながらの船路は快適で、頬をなでる湖風は心地よく、出港して波に揺られて束の間に湖水を進むと、水際に隙間無く軒を連ねた町並とともに輻湊(ふくそう)する漁船が眼前にひろがります。漁港に降り立ち、集落に足を踏み入れると、人がすれ違える幅の細長い路地が、あたかも迷宮に足を踏み入れたように感じられます。
 近江の風土を愛したエッセイストでもある白洲正子さんは、『近江山河抄』の一節に「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。」、そして「長命寺のあたりも美しいが、奥島山の裏に、これ程絶妙な景色が秘められているとは知らなかった。」と書き、沖島周辺の景観を「夢のような景色」と絶賛しています。
 過ぎし日に白洲正子さんが愛でた沖つ島山「沖島」とその周辺は、今でも彼女が感じた風光がそのままに残されています。

周辺のおすすめ情報

長命寺(近江八幡市長命寺町)

 古来、観音霊場であり、西国三十一番の札所です。本尊木造千手観音立像をはじめとして、多数の重要文化財が安置されています。

伊崎寺(近江八幡市白王町)

 役小角(えんのおづぬ:飛鳥時代の呪術者、修験道の開祖といわれる)の開基と伝えられる古刹です。貞観年間(859~77)、天台宗回峰行の創始者、相応和尚が再興し、現在に至ります。毎年8月1日、「伊崎寺の棹飛び」の行事があります。比叡山の修行僧が山腹から突き出た約13mの棹上から湖中に飛び込みます。

(藤崎高志)

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