新近江名所圖会 第56回 新たな道が通じたとき―廃村・茨川の盛衰―

東近江市永源寺町
山中の森に消えつつある屋敷跡

山中の森に消えつつある屋敷跡

 2011年3月26日、東近江市永源寺町と三重県いなべ市を結ぶ、石榑(いしぐれ)トンネルが開通しました。滋賀と三重を隔てる急峻な鈴鹿山地を貫く、総延長4,158mの長大なトンネルが完成したのです。技術の進歩により、交通の便がよくなり、地域の活性化と人口の増加が期待できるようになります。しかし、歴史をみていくと、一概にそうともいえないことが起こることがあります。
 国道421号を東に向い、永源寺町内最東部の杠葉尾の集落を過ぎ、車道が勾配を増し始めた頃、現在は石榑トンネルへのアクセス道路として拡幅されて分かり難くなりましたが、左側に1筋の林道が見えてきます。この林道を川に沿って十数㎞遡ると、林道終点のところに集落跡があります。この集落跡は「茨川(いばらがわ)」といい、昭和40年に廃村となってしまいました。
 鈴鹿の山中には多くの廃村がありますが、茨川は突出して山深い場所にあります。山中に突如現れる集落ではありますが、茨川は山越え道の途中に位置していることが重要です。茨川は、木地師で有名な君ヶ畑の集落から、ノタノ坂・治田峠を経て三重県へ抜ける山越え道の途中にあります。茨川は君ヶ畑の出郷でもあり、この山越え道の茶屋的な役割を担い、茨茶屋とも呼ばれました。
 茨川は、山越え途中の茶屋的な集落とは別に、鉱山集落という違う一面もあったようです。茨川では、16世紀頃には近くの蛇谷というところで、銀山の採掘が行われていたようです。銀山は断続的ではありますが、明治時代まで採掘されたようです。おそらく茨川は、銀山を支える鉱山集落的な役割も担い、戦国期~明治期に発展したのでしょう。しかし、採掘が終息に向い始めた頃、集落も同じ運命をたどり始め、林道茨川線の開設をきっかけに、廃村への道を歩んでいくこととなりました。

おすすめPoint

林道終点

林道終点

 自動車で茨川へ向う道は、林道茨川線しかありません。未舗装の険しい道ですが、横を流れる茶屋川は見事な渓谷です。
 銀山の終焉により、茨川の終焉も近づいていました。治田峠越えのような山道しか通じない集落は、近代化から取り残されつつありました。そんな最中、民間会社が製紙用チップの原木運搬用に林道の開設を始めました。林道開設は途中まででしたが、茨川ではこの際集落まで開設することを望み、村でも工事費を負担し、ついに茨川は現在の国道421号、八風街道と通じるようになったのです。これで交通の便は良くなり、村の発展も期待できるはずでしたが・・・。林道が完成されて間も無く、村民の離村が始まりました。望まれる村の発展とは逆の結果となってしまったのです。
 林道茨川線は、茨川の集落を廃村へと導いた原因のひとつでもありますが、新たな地へと旅立つきっかけにもなったのです。歴史の流れに大きく関わる要因の1つに、人の移動があります。1つの村が無くなるのは残念なことですが、それもまた歴史の中の出来事の1つでもあり、新たな土地では新たな歴史が始まります。たとえ1つの村が消えても、その地で暮らした人の心から消えることはなく、茨川という村が存在したという事実も決して消えることはないのです。

周辺のおすすめ情報

 町名でもある永源寺は、秋になると見事な紅葉がみられます。永源寺町の名産といえば、蒟蒻(こんにゃく)が有名です。色とりどりの蒟蒻が寺周辺の売店などで買うことができます。田楽や刺身で食べる永源寺蒟蒻の味は、晩酌のお供に格別です。
 永源寺の川を挟んだ対岸には、縄文時代草創期(約13,000年前)の土偶がみつかった相谷熊原遺跡があります。現在遺跡は水田となっていますが、縄文時代草創期の集落跡が、地下に保存されています。13,000年前の土偶は、現在「発掘された日本列島2011」に出展され、全国を旅しています。

アクセス

【自動車】名神高速道路八日市IC下車、国道421号、林道茨川線経由で約90分


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(重田勉)

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