調査員のおすすめの逸品 No.6 南滋賀町廃寺を飾る ―通称「サソリ文瓦」―

サソリ文瓦(長尾遺跡出土)

サソリ文瓦(長尾遺跡出土)

 667年中大兄皇子は藤原鎌足とともに、畿内から初めて外に設けられた都として大津宮へ遷都します。翌年に中大兄皇子は、天智天皇として即位します。仏教が百済から日本に伝わり約100年、依然として古墳が築造されている時代で、いまだ仏教の儀式をはじめとした体系が整っていなかったころです。比叡山、長等山と琵琶湖に挟まれた狭い山麓に営まれた大津宮を守護するかのように北から穴太廃寺、崇福寺跡、南滋賀町廃寺そして南方に園城寺下層寺院の大寺院が建立されました。
 日本の古代寺院は、甍の先端に単弁蓮華文軒丸瓦や複弁蓮華文軒丸瓦などを配しています。軒丸瓦の瓦当(がとう:文様を施した部分)は、蓮の花をモチーフにして、それを上から見た構図になっています。複弁蓮華文軒丸瓦(ふくべんれんげもんのきまるがわら)は、飛鳥の川原寺跡から出土することから川原寺式と呼ばれ、多くの白鳳寺院や上記の四寺院跡からも出土しています。川原寺は、母斉明天皇の菩提を弔うため中大兄皇子が創建したと伝わっています。ところが、南滋賀町廃寺から蓮華文軒丸瓦と異なる「蓮華文方形軒瓦」(れんげもんほうけいのきがわら)とよばれる瓦当が四角く、蓮の花を横からみた文様の瓦が出土します。その文様がサソリに似ているところから通称「サソリ文瓦」とよばれています。
榿木原遺跡窯跡群

榿木原遺跡窯跡群

 蓮華文方形軒瓦は、南滋賀町廃寺から西方約200mにある「榿木原遺跡」(はんのきはらいせき)の登窯で焼成されていました。榿木原遺跡は、白鳳時代から奈良時代・平安時代に南滋賀町廃寺に葺く瓦を製作していた工房跡で、登窯・平窯の瓦窯や粘土貯め施設、作業建物などが見つかっています。現地では、白鳳時代の登窯が移転保存され見学することができます。瓦当の大きさは縦21㎝、横23㎝で、肉厚な蓮弁を左右に四葉ずつ配し、中央の中房(ちゅうぼう)は花弁を三段に表現し、最上段には輪郭が付きます。花弁には珠文(しゅもん)が付くものと付かないものの2種類があります。外縁は幅が広めで文様はありません。また、通常の軒丸瓦は、後ろに延びる部分が丸く半円形になり、ゆるいカーブを描く2枚の平瓦が接する部分に被せるのに対し、蓮華文方形軒瓦の後ろに延びる部分が逆凹状になっており、セットになる平瓦もそれに合うように四角く凹状に造られています。方形平瓦は穴太廃寺からも出土していますが、蓮華文方形軒瓦は出土していません。この蓮華文方形軒瓦は、複弁蓮華文軒丸瓦のようなシャープさがないところに魅力と味わいがあります。
 では、他に類例をみない形状と文様の趣向はどこで生まれたのでしょうか?また、企画製作者がどのような意図でこの様な意匠としたのでしょうか?発掘調査を行っていた昭和50年当時から気になっていました。調査をご一緒させていただいた林博通先生の分析では、単弁系軒丸瓦やサソリ文瓦などは、渡来系氏寺に使われていた瓦であったとしています。大津京が遷都される前に崇福寺を除く三つ大寺院が存在し、高句麗の瓦工人が、大津で高句麗瓦製作技法をアレンジして、一本造り瓦製作と同時にサソリ文瓦も製作した可能性を指摘されています。そして、そこで活躍する渡来人のバックアップと積極的な参与により大津京が造営された見解を述べています。 
 中大兄皇子が成し遂げた大津宮遷都は、白村江の戦いに敗れ、非常な危機的状況の中で実行されています。その技術的、経済的、さらに政治・行政を支えた原動力は渡来人の知識でありました。優れた渡来人の活用は、近江朝廷の政権担当者にとって日本独特の新しい律令国家建設を目指す、強国を是としない日本の智恵であったといえます。その表現の一つに、サソリ文瓦という独創的な構図で形状の瓦を造り上げたのではないでしょうか。ただし、瓦の製作が667年を遡るのか、氏寺用か、官用かについての問題は残ります。今後、一つ一つ考古学と宗教学、文献史学などとの共同研究が進めば、サソリ文瓦製作の企画技術者たちの意図や製作年代に加え、仏教を国政に取り入れ鎮護国家を願う施策を展開した政権を担った人たちの考え方や仏教観念を理解する上でのヒントが得られるのではないかと思います。ともあれ、サソリ文瓦、その素朴で不思議な文様に魅力を感じています。

(葛野 泰樹)

滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会榿木原遺跡発掘調査報告書Ⅰ」1975
滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会榿木原遺跡発掘調査報告書Ⅲ」1981
林博通「幻の都 大津京を掘る」2005
葛野泰樹「大津宮選地の背景」『淡海文化財論叢二』2007

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