調査員のオススメの逸品 夏休みの自由研究企画➃ 戦国の権力の象徴:桐紋の金具―彦根市佐和山城跡出土―

今回は彦根市に所在する佐和山城跡の出土遺物についてご紹介し、そのあと、現地探訪へお誘いします。この夏休みのお天気の良い日、カメラやスマホを片手に家族で訪ねて、もしよろしければ夏休みの自由研究などにも仕立ててみてください。

佐和山城跡の発掘調査で見つかった遺物については、これまでにも何度か紹介してきました(第122回戦国時代の「磨石」第147回犬形土製品)。今回紹介する桐紋金具は、佐和山城の特徴をとてもよく表していると言える遺物です。

この桐紋金具(写真1・写真2)は、戦国時代の「磨石」と同じく、丘陵に刻まれた谷部にあった、上級家臣達の屋敷地を区画する堀の中から見つかりました。銅製の飾り金具で、残念ながら左側3 分の1 と右側の上端部を欠損しています。長さ5.1㎝・残存幅 3.7㎝・厚さ 0.2㎝・残存重量 9.4gを測り、中央には一辺0.6cmの隅丸方形の孔が穿たれています。用途としては、化粧箱などに取り付けた、紐飾りと考えられます。この桐紋は、五三桐(ごさんのきり:3枚の桐の葉の上に中央に5つの桐花を、その左右にそれぞれ3つの桐花を配した図柄)を意匠としています。花や葉は、蹴彫(けりぼり)で表現されていて、さらに葉は葉脈の部分が無地ですが、その間は魚々子(ななこ)で表現されています。この桐紋金具が、なぜ佐和山城の特徴をとてもよく表していると言えるかといいますと、桐紋は織田信長や豊臣秀吉などの権力者が好んで用いたからです。

写真2 桐文金具実測図

写真2 桐文金具実測図

写真1 桐文金具

写真1 桐文金具

信長が浅井・朝倉氏と戦った姉川の合戦(元亀元年[1570])の後、佐和山城には浅井氏家臣の磯野員昌が立て籠もりました。しかし、翌年、員昌は降伏・開城となって信長は佐和山城を手に入れ、その重臣丹羽長秀が城主となります。信長は、安土城築城までは、岐阜と京都の往復の際に頻繁に佐和山城に立ち寄ります。本能寺の変(天正10年[1582])で信長が殺された後、天下を取った秀吉もまた、重臣の堀秀政や堀尾吉春を入れ置きます。さらに、天正19年に城代として佐和山城に入った石田三成は、文禄4年(1595)からは城主となって湖北三郡を治めました。以上のように、信長・秀吉は信頼できる重臣を配しましたが、それは佐和山城が交通の要衝に位置する重要な拠点だったからにほかなりません。さらに言えば、関ヶ原合戦(慶長5年[1600])に勝利した徳川家康が、徳川四天王の一人である井伊直政を佐和山城に配置したのも同様の理由からであり、さらにいまだ豊臣方が多かった西国大名たちににらみを利かせるといった役割も担わされていました。

桐紋金具に話を戻しましょう。以上のように、佐和山城には、三成だけでなく、信長・秀吉の重臣が代々配置されていました。したがって、この桐文金具は、どの城主かは限定できないものの、信長や秀吉から下賜された化粧箱に取り付けられていたと推定されるのです。そのうえ、出土した場所が上級家臣達の屋敷地と考えられることから、城主からその家臣にさらに下賜された可能性も考えられます。すなわち、天下人の重臣が配置された要衝:佐和山城だからこそ、このような遺物が出土した、と言えるのではないでしょうか。

次に、なぜ桐紋を信長や秀吉らが好んで用いたのか、という点について考えたいと思います。もともとは桐が鳳凰という瑞鳥(めでたい鳥)が宿る木であることから、天皇がその紋様を召し物などに使うようになり、鎌倉時代頃から天皇家の御紋となりました。すなわち、桐紋は天皇=権力の象徴でした。天皇はさらに、有力な武将に桐紋を下賜するようになりました。室町幕府を開いた足利尊氏も後醍醐天皇から下賜され、信長は足利将軍家から桐紋を下賜されました。秀吉も信長から桐紋を下賜されたように、天下人となった信長や秀吉は、権力の象徴として桐紋を用いただけでなく、その家臣にも桐紋を下賜しました。ただし、桐紋には五三桐と五七桐(ごしちのきり:3枚の桐の葉の上に中央に7つの桐花を、その左右にそれぞれ5つの桐花を配した図柄)の2種類があり、天皇家の御紋が格の高い五七桐、下賜される家紋は基本的に五三桐でした。

実は現在でも、私たちが桐紋を目にする機会があります。1つは、総理大臣が記者会見の際に使う演台です。青地に金縁の長楕円形のプレートがこの演台の前面に貼られていて、プレートの中央に桐紋、その上に「Prime Minister of Japan(日本国総理)」、その下に「日本国」と書かれています。首相官邸のホームページによれば、日本政府は明治期から、公式の場や海外の賓客などをもてなす場などでは、礼服や食器などに五七の桐紋をあしらうようです。いわば日本国の象徴として、桐紋が使われているのです。

また、今年のお正月に京都市伏見区にある御香宮神社に家族と初詣に行ったのですが、参拝を待つ間にふと拝殿を見上げると、破風に桐紋があるのを見つけました。秀吉が伏見城を築く際にこの神社を守り神としたことから、これは不思議ではありません。ただ、この破風には、桐紋だけでなく、葵紋や菊紋・巴紋もあしらわれていました(写真3)。葵紋は徳川将軍家の家紋、菊紋は天皇家の家紋です。調べてみると、この拝殿は寛永2年(1625)に紀州徳川家初代徳川頼宣の寄進によるものでした(京都府指定文化財)。驚くべきは配置の順番です。徳川将軍家の葵紋が中央に、その左右に天皇家の菊紋、豊臣家の桐紋が順に配置されています。家康は、天皇からの桐紋の下賜を、葵紋があるため断ったそうです。菊紋よりも、桐紋よりも上位に置かれた葵紋は、その権力が当時いかに強大であったかを物語っているようです。

写真3 御香宮神社拝殿破風の桐紋・菊紋・葵紋

写真3 御香宮神社拝殿破風の桐紋・菊紋・葵紋

佐和山城跡の発掘調査現場そのものはすでに埋め戻されていますので、見ることはできませんが、山上にある本丸などの曲輪群は現在でも見学することができます。新近江名所図絵第38回でも紹介していますが、龍潭寺側から登って、近江鉄道鳥居本駅へと降りていくルートがおすすめです。歴史の表舞台に出てくる城跡を歩いて戦国武将たちに思いをはせ、小中学生の夏の自由研究の題材にしてみてはいかがでしょうか。すぐ近くにある彦根城との比較や、佐和山城築城から彦根城築城への歴史などを調べても面白いかもしれません。実際にのぼって撮影した写真などもセットで提出すれば、超かっこいい自由研究になるはず!

なお、佐和山城は龍潭寺の所有地であるため、マナーをもって行動する必要があります。また、足場が悪いところもありますので、子供だけで決して上らないようにしてください!必ず大人の方とご一緒に。安全にも注意しながらお楽しみください。

(小島孝修)
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