調査員オススメの逸品 第220回 どっちが表?―滋賀里遺跡出土の将棋駒―

 琵琶湖の西側を南北に走っている湖西線は、昭和49年(1974年)に開通しました。湖西線を作るときに行われた発掘調査で、興味のあるものが見つかっています。それは将棋の駒です。発掘調査が行われたのは昭和46年(1971年)3月から47年(1972年)3月の約1年間なので、発掘調査の歴史のなかでもかなり古い時期に見つかった駒であると言えます。将棋駒が見つかったのは、滋賀里遺跡で、縄文時代晩期の集落や墓地が見つかった遺跡として有名です。将棋駒は、滋賀里遺跡で検出された細い溝の中から、13世紀中頃の土師器の皿の破片と共に出土しています。
 将棋は、インドで発生して日本には少なくとも11世紀の中頃以前には伝わっています。ですから、13世紀と言えば出土品の中でもかなり古い時期の将棋駒になると考えられます。調査担当者によると、駒の出土した溝からは土師器の皿以外には時期のわかる遺物が出土しなかったようで、果たして13世紀でいいのかどうか少し不安な面が残るそうです。それでも私は勇んで『滋賀文化財だより』に原稿を投稿しました。昭和63年(1988年)のことです。奈良県の興福寺境内から現在最古(11世紀中頃)と言える将棋駒が多量に見つかる6年も前ですので、当時一番古いと考えられる駒は兵庫県日高町の深田遺跡の出土品は11世紀終わりころが最古でした。興福寺境内の駒とは約半世紀足らず新しい時期の駒ですが、滋賀里遺跡の駒は深田遺跡の駒から200年以内という比較的古い時期の駒なのです。現在、鎌倉時代以前と考えられる将棋駒は23遺跡57枚(総数は137遺跡483枚)です。当然、20数年前はもっと数が少なかったということです。
 滋賀里遺跡の将棋駒は、1枚で表面には「王将」裏面には「王」と読める墨書が認められました。この駒には、2つの謎があります。

王将(表)切り取り

王将(表)


王将(裏)切り取り

王将(裏)


 1つは表面の「王将」の文字です。現在の将棋駒には「王将」と「玉将」の2種類が書かれているのですが、多くの研究者は最古の興福寺駒3枚がすべて「玉将」であることや、駒の名付け方が「金」「銀」など仏教経典に現れる五宝の観念を参考にしていることから伝来当初の駒は「王将」ではなくて「玉将」であると考えます。
 2つ目は、裏面の文字です。将棋を知っておられる方ならご存知だと思いますが、「王将」もしくは「玉将」と「金将」の駒の裏側は字が書かれていません。それなのに滋賀里遺跡の駒は裏側に「王」と書かれています。何故でしょうか?
 1つ目については、確かに最古の駒は「玉将」です。しかしこれを除く滋賀里遺跡以前と考えられる駒は3枚見つかっていますが、いずれも「王将」なのです。その中の最古の駒は富山県石名田木舟遺跡の11~12世紀と考えられる駒です。この駒は「王」のひと文字なので、あるいは裏側のみ消え残ったのかもしれません。その次は大阪府の上清滝遺跡の駒で、1184年の木簡、その次が京都府の鳥羽離宮跡第135次調査のもので1203年の木簡と共伴しています。従ってかなり古い時期から「王将」駒は作られていたと考えられるのです。
 2つ目については、以前に滋賀県文化財保護協会の『紀要』(第6号)で指摘しましたように、裏面の白い駒は「成る(=駒を裏返す)」必要がなかった駒であったと考えられます。駒の裏面に文字が書かれるのは、駒の裏面を見ただけで種類が分かるようにしたものか、初心者用に丁寧に裏面まで書いてあったのかわかりません。今のところこれ以上の考えが思いつかないため、宙ぶらりんのままで現在に至っています。
 少し専門的な記述に偏りましたが、滋賀里遺跡の「王将」駒は私にとって非常に興味深いものであり続けています。

三宅 弘

参考文献
福井県教育委員会(1979)『特別史跡一乗谷 朝倉氏遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
公益財団法人滋賀県文化財保護協会(1988)『滋賀文化財だより』№127
公益財団法人滋賀県文化財保護協会(1993)「将棋史研究ノート3」『紀要』第6号
奈良県立橿原考古学研究所(1994)『興福寺旧境内発掘調査概報』
木簡研究会(1987)『木簡研究』第9号
木簡研究会(1990)『木簡研究』第12号
木簡研究会(1991)『木簡研究』第13号
木簡研究会(1994)『木簡研究』第16号
木簡研究会(1995)『木簡研究』第17号
木簡研究会(1997)『木簡研究』第19号

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