記事を探す

オススメの逸品

調査員のおすすめの逸品 No.48 埋もれていた近代化遺産 ―松原内湖遺跡出土「テ」と刻まれた標石

彦根市
写真1:標石発見状況
写真1:標石発見状況

それは予期せぬ発見でした。平成19年(2007)9月下旬、彦根市松原町にある松原内湖遺跡の発掘調査で、1本の標石が見つかりました。
旧内湖に面する丘陵上の表土や崩落土を全面にわたって削り落とし、地山(基盤となる面)を表出させていく作業をしていたときです。地山を掘り込んで埋められていた標石が頭を出したのです。地上に現れていたのは高さ25cm分で、そのほとんどが表土に埋もれていました。ですから、それまでに何度もその付近を歩いていたにもかかわらず、全く気が付きませんでした。見つかった場所は、丘陵の西斜面中腹(標高127m地点)です(写真1)。
その標石は花崗岩を用いて作られたもので、上部20cm分は丁寧に整形されていました。上面は15cm四方で、そこにはカタカナの「テ」が刻まれていました。さらに、埋められた状況を確認するために地山を掘り広げました。標石の全長は95cmで、それを据えるために直径30cm・深さ70cmの穴を掘って埋めていることがわかりました。下端部はチャート質の岩盤に接していたので、それ以上は深く掘り下げられなかったようです。また、標石の下部75cm分の表面整形は、上部に比べ粗く、凹凸がありました(写真2)。

写真2:標石埋設状況
写真2:標石埋設状況

こんな丘陵斜面でこのような標石が見つかることは、まさに予期せぬ発見でした。「いつ」「誰が」「なぜ」ここに埋めた標石なのか、当初は全く見当がつきませんでした。しかし、標石や埋められていた場所を調べていくと、どうやらあるべくしてここに埋められていたものではないか、と考えられるようになってきました。
まず、標石の材質や形状・規模ですが、明治期に地形測量のために全国各地に設置された三角点などの基準点に用いられた標石に似ています。今回見つかった標石に用いられていた花崗岩の産地は、科学的な分析を行なっていないこともあり不明ですが、明治期の基準点に用いられた標石は、小豆島産に統一されていったようです。このことから、まず「いつ」に関しては、明治期と推測しました。ただし、見つかった標石は上端に「テ」と刻まれているだけで、基準点のような「点」を示すものはありません。さらに、当時定められていた基準点の標石の規格とは、長さや幅などが少し異なるようです。
では、「テ」は何を示すのでしょうか。私はこれを「鉄道局(てつどうきょく)」の頭文字と考えました。そう判断した最大の理由は、標石が埋められていた丘陵斜面の下にかつて線路があったからです。この線路は、明治22年(1889)に敷設された東海道線で、この地点は米原駅と彦根駅のほぼ中間にあたります。そして「鉄道局」とは、当時鉄道建設を担っていた国の機関です。「誰が」は、鉄道局と推測しました。なお、現在の東海道本線(JR琵琶湖線)は、昭和31年(1956)の電化に伴い、尾根一つ西側に移設されています。

写真3:松原内湖遺跡調査地遠景 (写真の上方は米原市方面)
写真3:松原内湖遺跡調査地遠景 (写真の上方は米原市方面)

最後に、この標石が担っていた役割は何だったのでしょうか。標石には基準点のように「点」を示す役割のほかに、「線」を示す役割があります。この標石の上端に文字が刻まれていることを考えれば、土地境界線を示していたと考えられます。標石が埋められていた地点付近は、現在でも彦根市と米原市の行政界が通っていますが、かつてここが「鉄道管理局」の管轄の境界となっていました。すなわち、昭和62年の国鉄民営化以前は、名古屋鉄道管理局と大阪鉄道管理局の境界がちょうどこのあたりでした。「なぜ」については、管理局の境界を示すためと推測しました。現在のJR西日本とJR東海の境界は、米原駅の東側にあるようです。
以上のことから、標石は、明治期に鉄道局が管理局の境界を示すために埋めたものと推測しました。実は、この標石が見つかったときの発掘調査では、地表観察で尾根に人工的な改変が認められたことから丘陵尾根の全面をまる剥きにすることが一つの目的でした。結果、人工的な改変が実証されました。そして、この人工的な改変は、東海道線敷設に際して行なわれた切り通し工事の法面(のりめん)と考えられるのです(写真3)。

写真4:仏生山トンネル (非常に危険ですので近づかないで下さい)
写真4:仏生山トンネル (非常に危険ですので近づかないで下さい)

標石の北西すぐ近くには、「仏生山(むしやま)トンネル」という、現在は使われていない東海道線のトンネルが残されています(写真4)。見学用に整備されておらず非常に危険なので近づくことはできませんが、電車の車窓から一瞬だけ垣間見ることができます。線路敷設に際して行なわれた切り通し工事は、崩落しやすい丘陵の地質を考慮することなく行なわれたため、丘陵鞍部では開通後に落石が絶えなかったといわれています。落石を避けるために作られたのがこの仏生山トンネルです。レンガ造りのトンネルは、「開削式トンネル工法」により作られています。今回の発掘調査で見つかった標石や法面地形は、この仏生山トンネルと合わせて、日本の近代化を示す良好な資料といえます。
我々が行う発掘調査は、開発予定地で行うことが多いのですが、この標石が埋められていた地点を含む調査範囲も、近い将来に開発される予定になっていて、標石が失われてしまう可能性がありました。標石はその場にあってこそ意味をなすものではありますが、そのものが失われてしまっては元も子もありません。上記のように、すでにその役割を終えている可能性が高いと判断したこともあり、位置に関する情報などもきちんと計測したうえで、調査終了時に抜き取って持ち帰りました。とても重たく移動するのに苦労しましたが、後日その重さを測ったところ、73kgありました。埋設当時、運び上げるのも大変な苦労だったことでしょう。
整理調査の過程でこの標石に類似する資料を探してみましたが、私が手を広げた範囲では見つかりませんでした。ですから、以上の私の推論については、今後さらに調べて検討する必要があります。ですが、発掘調査についての記録や現時点で判明していることについては、平成23年3月刊行予定の調査報告書に詳しく記載しています。購入を希望される方(2月末まで:一冊3,150円)はどうぞご覧になってはいかがですか。

(小島 孝修)

Page Top