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弁天島玦状耳飾

オススメの逸品

調査員のおすすめの逸品 No.84 安土弁天島遺跡の玦状耳飾

近江八幡市
近江八幡市安土町下豊浦

休日に街中などを歩いていますと、さまざまなファッションに身を包んだ人たちがいることがわかり、現代日本において価値観がさまざまであることの一端を垣間見ることができます。中には色とりどりに着飾った人たちも数多くいますが、そういう人たちにとって重要なアイテムの1つがアクセサリー類のようです。指輪やネックレス、イヤリング・ピアスなどが代表的ですが、腰のベルトから鎖をジャラジャラさせている人もまれに見かけます。私にはそういう趣味はありませんが、男性でもアクセサリーを身につける人が多くなってきているようで、「男が着飾る」ことに対する抵抗感が若者を中心に減っていることが感じられます。そこで今回は時代をさかのぼって縄文人のアクセサリー(装身具)・玦状(けつじょう)耳飾を紹介したいと思います。

弁天島遺跡で見つかった玦状耳飾(左下は未製品)
弁天島遺跡で見つかった玦状耳飾(左下は未製品)
玦状耳飾の装着方法
玦状耳飾の装着方法

玦状耳飾とは、中国古代の玉器「玦」に似ていることからそう呼ばれる石製あるいは土製の装身具で、C字形をしています。大阪府国府遺跡の墓穴から出土した事例などから、耳に開けた穴に通して装着していた耳飾と考えられています。
装着方法からはイヤリングというよりピアスの方が近いかもしれませんが、太いものは断面の直径が1cm以上ありますから、某キャンドルアーティストほどではなくても、大きな穴を耳に開ける必要があります。形は時期ごとに異なりますが、おおむね断面は厚みのあるものから扁平なものへ、平面は円形から三角形へと変化していきます。
また、近畿地方で見つかる石製のものについては、使われている石材の産地から、北陸地方で作られたものが運ばれてきていると考えられます。
私は、平成11年(1999)に発掘調査を担当した近江八幡市安土町にある弁天島遺跡で、この玦状耳飾を発見しました。
弁天島遺跡については「新近江名所図会」第33回で少し書きましたが、この調査における重要な成果の1つが玦状耳飾の出土でした。しかも、玦状耳飾が見つかるであろうことは、発掘調査に入る前から少し期待していました。なぜなら、1つには、以前に行われた発掘調査で見つかっていたからです。
終戦間もない昭和24年(1949)、東京大学の山内清男博士を中心に「安土遺跡」の発掘調査が行われました。「安土遺跡」とは、弁天島遺跡を含む、小中の湖湖底に立地する縄文時代早期~前期の遺跡で、この調査で飴色をした玦状耳飾5点と管玉など5点が出土しています。
また、そのほかにも採集された玦状耳飾1点が滋賀県立琵琶湖文化館に収蔵されています。近畿地方で玦状耳飾が出土するのは、おもに縄文時代早期後葉~前期中葉の遺跡ですが、滋賀県内でも平成11年の時点でこのほかに3遺跡で1・2点ずつ出土していました。弁天島遺跡の過去の調査履歴はさておいても、この時期の遺跡からは玦状耳飾が出土することがある、ということも期待の1つの要因でした。
しかし、平成11年6月から本格的な発掘調査を始めたものの、ある意味当然なのですが、いっこうに玦状耳飾は見つかりませんでした。
そして、調査も佳境に入った翌平成12年1月のある日、遺構・遺物の検出数から遺跡の中心ではないかと目される地点で、とうとう1点の玦状耳飾が出土したのです。翌日にはさらに数点が出土し、結局その調査では合計6点が見つかりました。
さらに、翌年度の調査でも1点見つかったほか、地元の方から以前に採集されていたもの1点の寄贈を受け、合計8点の玦状耳飾が新たに見つかりました。以前の分も合わせて合計14点となり、弁天島遺跡は滋賀県内の最多出遺跡となりました。
さて、見つかった玦状耳飾は、平面はどれも円形ですが、断面が円形のものも扁平なものもあり、遺跡の存続時期と同じ頃のものとわかります。
また、完全な形のものは1つもなく、どれも途中で折れていて、さらにほとんどのものは穴が開けられています。これは、折れてしまったものを紐でつなぎ合わせたり、あるいはペンダントとしてぶら下げたりするために開けたようです。
遠くからもたらされた貴重なアクセサリーは、壊れても大事に使い続けたんですね。
最後に、玦状耳飾を身に付けたのは男性でしょうか、女性でしょうか? これまでの各地での発見例を基にした研究成果からすると、どうやらどちらも身に着けていたようです。男女ともに着飾るという風潮は、縄文人も現代人も変わらないのかもしれません。

(小島 孝修)

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