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調査員のおすすめの逸品№355  横尾山7号墳出土の陶棺

大津市

 

 読者の皆さんにクイズです。まず、写真1を見てください。これ何かわかりますか?

 不思議な形ですね。箱形の本体の下に円筒形の脚がついています。よく見ると、本体や脚には小さな穴があいています。『きかんしゃトーマス』に登場する四角い仲間、トビーにどことなく似ているような気がするのは私だけでしょうか・・・。

 クイズの答えは、陶棺(とうかん)でした。

写真1 横尾山7号墳出土の陶棺

 陶棺と聞いて、それが何かわかる方は、考古学にかなり詳しい方だと推察します。「想像もつかない」、「わからない」という方も安心してください。この記事は、そんな皆さんが陶棺に興味を持っていただくきっかけになればとの思いで書きました。気楽に読み進めてみてくださいね。

 さて、陶棺という漢字表記から、それが棺(ひつぎ)の一種であることには察しがつくと思います。棺は、遺体を納めて葬るための容器です。現代の日本では、遺体はほとんどが火葬されるため、燃えやすい木製の棺を用いることが一般的ですが、かつての日本では、さまざまな材質や形態の棺が用いられていました。

 とくに古墳時代~飛鳥時代(3世紀中頃~8世紀初め頃)には、多種多様なものが見られます。木製の棺(木棺)や石製の棺(石棺)が代表的なもので、これらは形態的な特徴や構造上の特徴によって多くの種類に分けられています。割竹形(わりたけがた)木棺や長持形(ながもちがた)石棺、家形石棺などは各地の古墳から見つかっており、歴史の教科書や副読本にも紹介されていることがあるので、ご存じの方も多いでしょう。小学校の社会科見学や修学旅行で実際に古墳を訪れ、実物に触れたという方や博物館・資料館で見たことがあるという方もいるかもしれません。

 一方、この時代には焼き物でつくられた棺(土製棺)も用いられました。その一つに陶棺があります。陶棺が用いられたのは古墳時代の終わり頃から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀)のことです。歴史上の有名人では、聖徳太子や天智天皇、中臣鎌足などが活躍した時代にあたります。陶棺は、全国で700例近く見つかっていますが、そのうちの8割弱が岡山県、2割弱がかつて畿内と呼ばれた近畿地方中央部で見つかっています。こうした特徴から、陶棺は両地域の関係性を考える上で重要な資料として注目されています。

 畿内の東に位置する滋賀県にもいくつかの類例が知られています。ここでは、大津市の横尾山(よこおやま)古墳群で出土したものを紹介します。

 横尾山古墳群は、7世紀中頃につくられた古墳群です。瀬田丘陵最西端の南斜面に30基の古墳が確認されています。当古墳群の被葬者としては、瀬田丘陵に展開する須恵器や鉄の生産遺跡群で活動した工人たちやそれを管理した官人たちが想定されています。

写真2 横尾山古墳群7号墳全景

 陶棺は、横穴式石室を主体部とする7号墳の石室内で見つかりました(写真2)。この陶棺は、四柱式家形(しちゅうしきいえがた)陶棺と呼ばれるタイプです。発掘調査時には、すでに石室奥壁側の半分や棺の蓋が破壊されていましたが、陶棺の中からは鉄鈴2点などが見つかりました。

 なお、四柱式家形陶棺は、寄棟造りの家を表現したもので、類例は岡山県には少なく、畿内が圧倒的多数を占めています。県内では他に大津市の山ノ神(やまのかみ)遺跡2号窯や草津市の横土井(よこどい)遺跡で見つかった古墳から出土しています。滋賀県内の出土例どうしの関係やそれらと畿内の出土例との関係が注目されるところです。

 まだまだわからないことが多い陶棺、今後の調査・研究の進展に期待がかかります。今回紹介した横尾山7号墳の陶棺は、この夏、滋賀県埋蔵文化財センターにやって来ます。(◆令和5(2023)年7月22日(土)から11月12日(日)まで『人と自然―瀬田丘陵の開発史(仮)』展で展示されます。7月22日~8月31日まで無休。9月~11月は土日祝休館。ただし行事開催時は開館。)

 また、ご紹介した県内出土の陶棺のうち、横土井遺跡のものは、普段は滋賀県立安土城考古博物館のエントランスホールに展示されています。小・中学生の皆さん、夏休みの自由研究で詳しく調べれば、考古学者を驚かせるような発見ができるかもしれませんよ。ぜひ、埋蔵文化財センターや安土城考古博物館で本物を観察してください。そして、わからないことや気になることを学芸員に質問してみてください。

 <参考文献>

倉林眞砂斗2005『吉備考古ライブラリィ⑫ 石棺と陶棺』吉備人出版

滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会1988『横尾山古墳群発掘調査報告書―一般国道1号(京滋バイパス)関係遺跡発掘調査報告書Ⅱ―』

(宮村誠二)

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