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新近江名所図会

新近江名所圖會 第257回 仁正寺藩市橋家墓所-祥雲山清源寺(蒲生郡日野町西大路)

日野町
写真1 清源寺山門
清源寺山門
写真2 3代信直墓
3代信直墓
写真3 6代長璉墓
6代長璉墓
写真4 8代長発墓
8代長発墓

今年は4月から日野町の番場遺跡・播沢遺跡の発掘調査を担当しています。いままでに県内各地の現場をまわりましたが、日野町での調査は今回がはじめてでした。自分が調査している遺跡をとりまく地理的・歴史的環境について理解を深めておくことは調査遺跡の評価のさいにも必要ですので、休みの日にはなるべく機会をつくって、あちこち見て回るようにしています。今回はこのようななかから、江戸時代の大名墓-市橋家墓所をご紹介します。
さて、滋賀県で大名墓といえば、米原市丸亀藩主京極家墓所・彦根市彦根藩主井伊家墓所・高島市大溝藩主分部家墓所等がよく知られていますが、この市橋家墓所は、元和6年(1620)に市橋長政が近江国蒲生郡・野洲郡、河内国内で2万石を拝領して立藩した仁正寺藩の藩主の墓所です。
市橋氏は美濃国(岐阜県)出身の戦国武将で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の家臣として活躍しました。とくに市橋長政の養父である長勝は、徳川方大名として功績を立て、関ケ原合戦を経て越後国(新潟県)三条四万石を領する大名でした。しかし、元和6年に長勝が没すると、市橋家は領地を没収されることになってしまいました。家臣の嘆願等によって、同年に長政を養子とし、蒲生郡の仁正寺村等の2万石(後に分与により1万7千石)の大名として存続することが許されました。その後、市橋家は幕末まで10代にわたってつづきました。
市橋家の墓所は、国許の清源寺と、江戸の南泉寺・瑞輪寺に営まれました。このように分かれて営まれるようになったのは、江戸時代の大名は参勤交代を行っていたため、国許で亡くなると国許の墓所へ、江戸で没すると江戸の墓所へ葬られたからです。

◆おすすめpoint
清源寺は日野町西大路の西大路小学校前にあります。参道を進み、山門をとおりすぎると、眼前に大きな本堂が目に入ってきます。お目当ての墓所は、この本堂の西側にありました。
この国許の清源寺の墓所には、3代藩主信直・6代藩主長璉・8代藩主長発と、9代藩主永富室(貞良院)のお墓が現存しています(写真2~4)。お墓の形態は、それぞれで若干の違いはありますが、瓦や石積みの基壇の上に宝篋印塔を造立する点で共通しています。さらに、記録や地元の方々の記憶によって、基壇の上には墓石を覆う施設(御霊屋)があったことがわかっています。また、現在では、3代信直墓・6代長璉墓の前には忠魂碑が移築されていますが、本来はそれぞれのお墓につづく墓道があり、その両側には家中や領民から奉献された石灯籠が設置されていました。
しばし墓石を見学していたのですが、これら3基の宝篋印塔は、普段滋賀県でみる宝篋印塔とは、塔の最上段の部分(相輪)の形状が違うことに気づきました。これについては、江戸で亡くなった長政墓が採用した江戸系宝篋印塔と類似していることから、国許で亡くなった3代信直の墓石は江戸系を模した宝篋印塔が選択され、それ以降国許の墓所での墓石のモデルとして踏襲されたという意見が近年の研究で提示されていることを知りました。
ちなみに、この市橋家墓所は、平成29年3月に滋賀県指定文化財「仁正寺藩市橋家墓所および奉献石燈籠」として指定されています。

◆周辺のおすすめ情報
周辺には仁正寺藩陣屋跡が残っています。この陣屋を中心とした日野市街地はいわば仁正寺藩の「城下町」に相当します。通りをあるけば、伝統的な建物があちこちに残っています。とくに「日野商人」山本西吉家本宅(江戸時代末期頃の建築)を利用した近江日野商人ふるさと館では日野商人の歩みを知ることができます。

辻川哲朗

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