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新近江名所図会

新近江名所圖會 第248回 元祖コマーシャルソング”を生んだ地・近江国「柏原」

米原市

「江州柏原伊吹山のふもと 亀屋左京の切り艾(もぐさ)」♪―― “元祖コマーシャルソング”といわれるこの歌は、平成の現代からさかのぼること約三百年、伊吹艾の販促歌として、江戸時代中頃、元禄の頃に広まりました。

里のヨモギ
里のヨモギ(小ぶりで背丈が低い)

近江(江州)の商人が天秤棒に商い品をかついで各地に赴き商売し、成功して大棚の主となった者も多いというのはよく知られています。伊吹艾を江戸で売り、大成功した柏原の六代目・亀谷左京七兵衛にはある秘策がありました。まず、儲けた財を遊郭・江戸の吉原で惜しみなく使い、お大尽として有名になります。そして遊女に、この歌を事あるごとに歌うよう頼んだといわれています。当時、吉原は流行の最先端、文化の発祥・伝達の場でした。この単純で覚えやすい歌は瞬く間に江戸に広がり、さらに商品が売れたようです。七兵衛はこの元祖コマーシャルソングを考案し、商品を宣伝・販売しただけでなく、柏原の店舗に付設して近江八景を取り入れた大がかりな庭園をつくり、行き交う人に開放し、もてなすことで、旅人が国もとに帰った時に亀屋左京のことが話題に出るようにもなりました。また、上方で伊吹艾を題材にした浄瑠璃を演じさせたりと、伊吹艾の広報に工夫を凝らし、商才に長けた人物だったようです。
こうした伊吹艾が販売されていたのは、中山道「柏原宿」です。柏原宿は江戸時代初頭に幕府によって整備された中山道60番目の宿場町で、約350ほどが軒を連ね、東西約1.5kmにわたる大規模な宿でした。現在の米原市柏原に所在しており、JR柏原駅の南西に50mほどいくと、国道21号にほぼ平行して広がっています。冒頭の歌にあるように伊吹山まで約5kmとほど近い場所です。
ところで、伊吹艾の原料となるのはヨモギ餅でも馴染みのあるヨモギで、艾に用いるのはこのヨモギの葉裏の白毛の部分です。灸の文化や産地、現代の製法についてはこれまでにも同コーナーで紹介されていますが、販売目的の量産は江戸時代以降といわれており、同中頃以降には多くの書物に“名産”として登場するようになります。

藤原実方の歌
藤原実方の歌(かるた「百人一首」より)

伊吹山は古代より良質な薬草が得られることで知られており、『延喜式』にも多くの薬草を納めたことが記されています。標高1,377mの山地には、里で摘むヨモギより背が高く2mほどにもなるオオヨモギがあり、大型のヨモギは多くの艾を得るのに適しています。
この「艾」と「伊吹山」については、こんな歌が知られます。「かくとだに えやは伊吹のさしもくさ さしも知らじな もゆる思ひを」(こんなにあなたを想っていることすら言えずにいます。伊吹山の“さしもくさ(ヨモギの別名)”のように燃えている私の思いを、あなたはおわかりにはならないでしょう)。百人一首第五十一番でも馴染みの歌で、もともと『後拾遺集』にみられるこの和歌は、平安時代中頃の藤原実方が詠んだ恋の歌として知られており、「伊吹」で採れる「さしもくさ」が読み込まれています。実方は歌才に優れ、清少納言をはじめ多くの女性とも交流があり、光源氏のモデルのひとりともいわれていますが、陸奥国(東北地方)に異動になり、かの地で生涯を閉じます。

さて、実は、この実方の歌に出てくる「伊吹」の所在地については2説あります。ひとつは近江(滋賀県)、もうひとつは下野(栃木県)です。共に艾の原料となるヨモギ「さしもくさ」の産地で、歌の詠まれた平安時代には下野国でも採取されていましたが、近江国伊吹山の薬草が古代から有名であったことに加え、江戸時代の亀屋左京の秘策、“元祖コマーシャルソング”の流布とともに、とりわけ近江柏原の「伊吹艾」が著名になったことで、“艾といえば近江の伊吹山”という図式が定着し、後世に歌の「伊吹」がどちらか、混同されがちになったと考えられます。

木曽街道六十九次
歌川広重『木曽街道六十九次』の一部(右奥に福助人形がみえる・中山道添いの案内板より)

伊吹艾を売る亀屋左京の様子は、江戸時代後半に歌川広重によって描かれた『木曽街道六十九次』にも描かれており、その賑わいぶりを知ることができます。街道を旅する人々は柏原宿に近づくとこの歌を口ずさんで、伊吹艾を買い求めたことでしょう。

福助さん
福助人形(柏原宿歴史資料館の展示より)
街道の様子
街道の様子(右手前は資料館)
やいとうどん
「柏」の“やいとうどん”

<周辺のおすすめ情報>
『木曽街道六十九次』には「亀屋左京」の店内に、テョンマゲに裃姿で正座する大きな福助人形が描かれています。幸福、長寿、商売繁盛のシンボルとして知られる福助人形のモデルは、農家の息子、京都の呉服屋主人、そして亀屋の番頭と、諸説あります。亀屋の番頭は常に裃を付けて扇子を手放さず、道行く客を手招きし、どんなに少なくとも艾を買う客に対してはいつも感謝の心を表して、おべっかを言わず、真心で応え続けたため、客の信頼も厚く、商売も大繁盛したため、主人に重用され、伏見の人形屋がつくったものが店舗に置かれるようになったといわれています。最近ではあまりみかけなくなりましたが、“昔、家に福助の貯金箱あったなぁ”、という方も多いのではないでしょうか。
元祖コマーシャルソングのかいもあって、当時人々は、柏原に着いたら切り艾を買おうとワクワクしていたことでしょう。柏原宿で往時十件ほどあった艾店も、現在は「伊吹堂 亀屋左京商店」一軒となりました。艾を買いに行くと、店奥に鎮座する福助人形と会うこともできるでしょう。そして艾そのものに加え、これまた次も艾を買いに来たくなる楽しみも生まれるのです。“伊吹堂”は司馬遼太郎の『街道をゆく』にも紹介されています。
“伊吹堂”の斜め向かいには「柏原宿歴史資料館」があります。資料館は亀屋七兵衛の伯父さんである亀屋久作左京宅を改装したもので、中山道「柏原宿」を中心とした、地域の歴史について学ぶことができます。数十体の福助人形が出迎えてくれる部屋もあり、制作時期や趣向の異なる福助人形をみることができます。また、付設する「喫茶 柏」では、「やいとうどん」を食べることができます。「やいと」とは灸(きゅう)、艾のこと。火のついた艾に見立てて、こんもり盛られた“もくず”の上に紅生姜が乗っており、その下に半分に切ったゆで玉子が隠れています。ほかにも、かつお節、結び湯葉、ネギが添えられています。どんなお味か、お試しあれ。
資料館の斜め向かいでは毎年7月下旬の週末に、艾にちなんで近年生まれた「やいとまつり」が行われ、“やいと(灸)体験”することができます。
資料館から西に500mほど歩くと、徳川家康・秀忠・家光が上洛するときに宿泊・休憩所とした「御茶屋御殿跡」があります。家康が柏原に宿泊する際には地元の西村家を宿にしましたが、家光のとき「御茶屋御殿」が建てられました。家康・秀忠・家光の三代で、柏原の滞在は14回に及び、これは県内最多の頻度です。徳川幕府が安泰となると将軍が上洛することはほとんどなくなり、元禄三年には御殿も解体されます。資料館所蔵の蟇股(かえるまた・屋根の一部)にはこの解体に関する裏書が残されています。
当時に思いをはせながら東へ500mほど行くと、幕末に徳川家茂に降嫁した皇女和宮が江戸への下向の際に宿泊した本陣跡があります。現在は看板が建つのみとなっています。資料館に残る『萬留帳』には江戸時代前半から近代に至るまでのおよそ300年間の柏原の諸事が記録されており、和宮宿泊の折には、「亀屋七兵衛左京」で長持三竿の艾が売り切れてしまったことが記されています。
ほかにも周辺には、柏原宿の様々な施設をみることができます。また、柏原宿から約1mの丸山には南北朝期に活躍した北畠具行の墓があるほか、信長、秀吉などの戦国武将が宿営した「成菩提院(じょうぼだいいん)」、桜紅葉の名所としても知られる京極家菩提寺「清瀧寺徳源院(せいりゅうじとくげんいん)」(第17・109回)、関ケ原方面へ向かうと「寝物語の里」で知られる長久寺(第142回)など、見所満載です。

中川 治美

<「柏原宿」へのアクセス>
・JR柏原駅から徒歩約5分
・北陸自動車道米原ICまたは名神高速道路関ヶ原ICから車で約15分

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