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新近江名所図会

新近江名所圖絵第206回 大津蔵屋敷の面影を訪ねて(その1)

大津市
写真1 浜大津駅前(大津代官所跡・御蔵跡)
写真1 浜大津駅前(大津代官所跡・御蔵跡)
写真2 大津城から移築された国宝彦根城天守
写真2 大津城から移築された国宝彦根城天守
写真3 小室藩蔵屋敷跡(左側のビル)と舟入跡(川口公園)
写真3 小室藩蔵屋敷跡(左側のビル)と舟入跡(川口公園)

江戸時代、大名の格式を決める基準となったのは、所領から取れる米の量(石高)でした。石高の大小によって、城を持てるか、それとも陣屋で我慢しなければならないかなどといった大名の格式を幕府は細かく定めていました。その基準となったお米ですが、その価格はどこで決められていたのでしょうか?
江戸時代初め頃、大津の米価が全国の米の値段を左右したといわれています。当時の大津には、近江国だけでなく、北陸地方や東北地方の年貢米が運びこまれ、その売買で活況を呈しました。多くの藩や旗本は、大津に蔵屋敷を設け、領内の年貢米をそこに送り、年貢米を売却することで、藩の運営資金を調達していたのです。大津に蔵屋敷を設置した藩・旗本は、近江国内に所領を持つ彦根藩や淀藩だけでなく、北陸地方の加賀藩前田家や小浜藩酒井家、遠くは東北地方の弘前藩津軽家、仙台藩伊達家など、その数は現在判明しているだけで30に及びました。当時の大津は日本の経済を動かす一大金融都市だったのです。しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。
寛文12年(1672年)、河村瑞賢(かわむら ずいけん)が西廻航路を開設しました。それまでは、日本海地域の物流は、海路にって運ばれ、敦賀・小浜を経由し、塩津街道や九里半越えを経て、再び琵琶湖の水運で大津へ運ばれていました。しかし、西廻航路では、日本海地域の物流は日本海沿岸を西へ進み、関門海峡を経て瀬戸内海を東行し、直接大坂へ運ばれるようになりました。その結果、大津への年貢米等の搬入量は激減し、年貢米の取引は近江や北陸の米の一部に限定されるようになりました。とはいえ、それでも幕末まで、大津には10ヶ所前後の蔵屋敷が置かれ続けました。
現在、大津は都市化が進み、琵琶湖のほとりに多数の米蔵が林立していたかつての姿を想像できなくなりましたが、今回の「新近江名所圖会」では、大津蔵屋敷の旧跡を探りながら、かつての港湾都市大津を散策してみましょう。
最初に訪れる場所は幕府の「大津代官所」と「御蔵」跡です。まず、京阪浜大津駅で降りてみましょう(写真1)。そこはかつての大津代官所の敷地にあたります。浜大津駅構内付近にあった大津代官所は大津町の行政や琵琶湖の船運の統括とともに、駅の西側(現在の浜大津明日都から国道161号線北側の一帯)にあった「御蔵」を管理していました。「御蔵」には、近江や日本海側の幕府領から運ばれてきた大量の年貢米を収納・管理する20棟の巨大な米蔵が置かれていました。その収納量は、西廻り航路の影響を受け、蔵の数を1/3以下の6棟に減らした元禄13年(1700年)の時点でも、約1万5千石におよびました。
なお、この場所は天下の命運を決した場所でもあります。代官所が置かれるまで、ここには豊臣秀吉が築かせた大津城がありました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦として、この城に籠城した浅井三姉妹の次女「お初」と夫の京極高次は、8日間もの間、西軍の大軍をこの城に釘付けしたのです。最終的に、和議を受け入れて京極高次が開城した日の朝、関ヶ原の戦いの火ぶたが切って落とされました。そのため、大津城を包囲していた大軍は関ヶ原の戦いに加勢できなかったのです。徳川家康はそれを勝因の一つと評価しました。家康は、最後まで落ちなかった大津城の天守を「目出度き天守」として、あらたに造る彦根城へ移築させました。それが今に残る国宝「彦根城天守」です(写真2)。
京阪石坂線沿いの道を西に進むと、南北に細長い川口公園が見えてきます(写真3)。この公園は船を係留する港(船入り)を埋め立てた場所です。公園の東隣りには長浜市小室町に陣屋を構えた小室藩小堀家の蔵屋敷がありました。初代藩主は、作庭の名手であり、遠州流の茶道の祖としても名高い小堀遠州です。伏見奉行として京都で過ごすことが多かった遠州ですが、領地との往復の途中で、この屋敷にも立ち寄ったかもしれません。
川口公園を挟んで西隣りには、甲府藩徳川家の蔵屋敷がありました。甲府藩は将軍徳川家光の三男徳川綱重が藩主であった親藩です。ただし、この蔵屋敷には甲斐国から米が運ばれてきた訳ではないようです。寛文元年(1661年)、徳川綱重は武蔵国や近江国などで10万石分の領地を新たに加増されましたので、おそらくこの時に近江の領地の年貢を管理するために、大津蔵屋敷が置かれたのでしょう。ところが、甲府藩大津蔵屋敷は、宝永元年(1704年)に突如終わりを告げます。その原因は、子供がなかった将軍徳川綱吉の養子として藩主綱豊が選ばれたためです。綱豊は徳川家宣と改名し、その後、六代将軍となりました。
次に訪れる場所は、加賀百万石前田家の蔵屋敷です。京阪三井寺駅まで線路沿いの道を進むと、琵琶湖疏水にいたります。疏水沿いの道を琵琶湖に向かって進み、最初の橋で疏水を渡りましょう。この道は大津から北陸へ向かう北国街道です。この道を進むと大津観音寺郵便局があります。この郵便局の北側一帯がかつての加賀藩蔵屋敷跡です。滋賀県立図書館が所蔵する明治初期の加賀藩蔵屋敷絵図には、広い敷地の大半が更地となった屋敷の姿が描かれています。西廻航路開設以後、大津を経由せず、北陸の領地の年貢米を直接、大坂へ輸送・販売する戦略をとった加賀藩にとって、大津の蔵屋敷は近江の年貢米だけを扱う施設に過ぎず、もはや無用の長物と化していたのかもしれません。
◆アクセス 京阪石坂線 浜大津駅・三井寺駅下車。徒歩5分

◆周辺のおすすめポイント
明治23年(1890年)加賀藩大津蔵屋敷跡のそばを通る琵琶湖疏水(史跡)が造られました。京都の電力と水道水を支える疏水ですが、造られた当時は琵琶湖と京都を直接結ぶ船運路としての役割も担っていました。また、琵琶湖疏水は三井寺とともに滋賀県を代表する桜の名所となっています。春、疏水沿いの満開の桜が水面に花びらを散らす風景をご覧になってはいかがでしょうか。
(北原治)

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