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オススメの逸品

調査員のおすすめの逸品 №264 長野遺跡の墨書土器

愛荘町

毎年、滋賀県内のあちこちで発掘調査現場を担当しています。歴史を塗り替えるような世紀の大発見などとは縁遠いのですけれども、調査の現場では、地味ながらも、その地域の歴史を考える資料と最初に出会える機会をいただいています。
そうした多くの出土資料の中には、心と記憶に残る例がいくつかあります。今回はその一つ、愛知郡愛荘町にある長野遺跡から出土した墨書土器(字や記号が墨書きされた土器)をご紹介したいと思います。
長野遺跡は、琵琶湖の東岸―湖東地域の愛知川が形成した平野部にある遺跡です。県道拡幅工事に伴って平成8・9年度に発掘調査が実施されました。平成8年度に入社した私は、先輩職員2名とともに調査を担当することになりました。秋口から現場に着手し、年度末までかかって調査をようやく終了しました。湖東地域の冬の寒さと、断続的に襲ってくる積雪に閉口したことをよく覚えています。
県道沿いに、いくつも細長い調査区を設定し、調査を進めていきました。そのうちの一つを調査していたところ、湿地のような落ち込みが見つかりました。落ち込みを掘り下げていると、その中から奈良時代中頃の須恵器・土師器等が多量に出土したのです。

写真2「寺」と書かれた墨書土器
写真2「寺」と書かれた墨書土器
写真1「上殿」と書かれた墨書土器
写真1「上殿」と書かれた墨書土器

ちなみに、この時期の近江地域では、一般集落の場合、須恵器の食器が多い傾向があります。しかし、この長野遺跡の土器群は土師器と須恵器の比率がほぼ拮抗していて、特異な様相―普通の集落ではない傾向を示しています。また、須恵器のお皿の蓋の中には、内側に墨がべったり附着し、硯として転用されたことが分かる例や、漆が附着しており、漆を塗る際のパレットとして使用されたと考えられる例もありました。硯の存在からは文字を使用する人がいたこと、漆パレットからは漆を使用した生産活動がなされていたことが分かります。
さて、墨書土器です。出土した土器を事務所に持って帰って洗浄していると、墨で字や記号が書かれた土器がいくつも見つかりました。書かれた内容は、「上殿」・「寺」という施設名と思われる文字(写真1・2)、「〇」や「〇」を三つ重ねた記号でした。
ちなみに、近江地域での墨書土器の出土傾向を見ると、宮・役所・寺院などといった遺跡から多く出土することが分かっています。先に述べた土器の特徴とも合わせて考えると、長野遺跡は普通の集落ではなく、役所や寺院に関係する遺跡であると推定できます。
墨書土器を観察していると、1点の土器に目が留まりました(写真3)。この土器は須恵器の杯というお皿なのですが、土器の内側に「上殿」と書かれていました。それ以外では、書く場所の違いはあるものの、もれなく土器の外側に墨書されています。いうまでもなく、お椀は食べ物を入れて使うもの。ですから、食べ物を盛る土器の内側に書かれることには違和感を覚えました。なぜ内面に書かれたのだろう?そんな疑問をいだき、自分なりに考えてみることにしました。

写真3内側に「上殿」と書かれた墨書土器
写真3内側に「上殿」と書かれた墨書土器

そもそも土器に墨書するのは、他の土器からその土器を区別するためでしょう。施設名が書かれるのは、その施設に附属する土器だとみることができます。つまり、「上殿」は上殿いう施設があり、そこに附属する土器だということを示すために墨書されたと考えるわけです(その前提として、複数の施設の土器を一緒に使用する機会があったことが想定できます)。これは使い手の立場に立つ墨書といえます。その一方、土器の生産場所から消費場所―つまり各施設―に土器が分配されるさいに、流通過程でそれぞれの配送先の目印として施設名が墨書されたと考えることもできます。
この長野遺跡の内面に墨書された例(写真3)は、このうちの後者の事例ではないかと考えました。つまり、この墨書はその土器を自ら使う人(使い手)ではなく、多くの土器を複数の配送先に仕分ける立場の人(送り手)の手によるのではないか、と考えるにいたったわけです。自ら使うものではないため、あまり気がねすることなく、内側に書いてしまった、そんな書き手の姿を想像してみたいのです。
たった一点の地味な土器ではありますが、古代の人々も現代の自分とあまり変わらない心理を持っていたような気にさせてくれる、私にとっての「逸品」です。
(辻川哲朗)

参考文献
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会(1999)『長野遺跡』(県道愛知川彦根線緊急地方道路整備事業に伴う発掘調査報告書Ⅳ)

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