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調査員のおすすめの逸品 №301 年に一度活躍(?)する、村を守る最強アイテム-大般若経

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古いもの、使わなくなったものに対して、「博物館行き」という言葉がよく使われます。良い意味で使われることが少ないように思うので、私は好きではありませんが、博物館で収蔵・展示している資料の大部分が、実社会での役割を終えた「歴史的遺産」であることは確かです。ただ中には、一時的に実社会で必要とされ、役割を果たしに戻る資料もあります。大般若経は、そういう資料の一つです。

写真1 延暦寺焼討のエピソードが記された大般若経(近江八幡市願成就寺所蔵)
写真1 延暦寺焼討のエピソードが記された大般若経(近江八幡市願成就寺所蔵)

正式には大般若波羅蜜多経という600巻からなる大部のお経で、中国の唐の時代(7世紀)に、『西遊記』の「三蔵法師」で有名な玄奘三蔵が、インドのサンスクリット語から漢文(当時の中国語)に訳しました。日本に入ってきたのは飛鳥時代で、以後、鎮護国家や五穀豊穣を願って国家的な寺院で写経・読誦が行われましたが、中世になると一般庶民や村々にもその信仰が広がります。

その頃には、功徳はどちらかというと、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈ることが主流となります。村々は日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて皆で祈願しました。とはいえ、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという、今から見ると妙な保管状況になっていました。
前置きが長くなりました。令和になった今も、このような転読を続けている共同体が、滋賀県にはいくつか残っています。安土城考古博物館でお預かりしている大般若経のうち1具は、今も年1回、村の人々が集まって転読を行っています(今は村のお寺で行っています)。学芸員はそのたびに、お経をお寺に運んで転読に供し、終わるとまた収蔵庫に戻すのです。

写真2 大般若経の転読風景
写真2 大般若経の転読風景

昨年(2020年)の転読は、新型コロナウイルスが世間で猛威を振るう中、行われました。多くの人が集まる転読会は「密」なので避けねばなりませんが、疫病退散を祈る法要なので、今こそ行うべき行事でもあります。結局、人数を減らし、参加者はフェイスシールドやマスクをし、部屋を開け放って行いました。もちろんアルコール消毒も(お経はムリですが)。写真2をご覧いただくとわかるように、念仏を唱えながらお経が宙を舞う、珍しい光景が繰り広げられます。この時だけ、大般若経は「文化財」から、村の人々の暮らしを守る役割を果たすアイテムに戻るのです。

長い歴史の中で伝えられてきた大般若経は、歴史の証人でもあります。その時々で起こった事件の情報が、お経の余白に書き加えられていることがあるのです。写真1の大般若経は、転読しているお経とは別のお寺のものですが、面白い書き込みがあります。元亀2年(1571)9月に織田信長によって比叡山延暦寺が焼き討ちを受けた時、末寺である自分たちにも類が及ぶのではないかと恐れ、本尊や寺の什物を避難させる騒ぎの中で5巻を紛失してしまい、2年後に補充したのがこれだと書かれているのです。間接的ではありますが、焼き討ちの時の人々の反応がわかる、面白い資料です。(高木 叙子)

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