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調査員のおすすめの逸品№385 炮烙(ほうらく)がいっぱいでてきた‼

近江八幡市

 私は、今から四半世紀ほど前に、近江八幡市に所在する里井(さとい)(さとい)B遺跡(写真1)の発掘調査に携わりました。近江八幡市は、旧蒲生郡であったというイメージが強いですが、里井B遺跡のある十王(じゅうおう)(じゅうおう)町や江頭(えがしら)(えがしら)町・小田町一帯は旧野洲郡に属していました。そして、ここには京都下鴨神社の荘園である「(に)保(にぼ)(ぼ)荘」も中世に存在していました。この邇保荘については、地元江頭町の区有文書として「邇保庄条里図」が保管されており、その記載内容から15世紀ないし16世紀に作成されたものと考えられています。里井B遺跡の調査地は、この条里図中の「ムレ立」「上川ハタ」と地名の記された場所にあたり、現在も「ムレ立」にあたる場所には、牟禮(むれ)(むれ)神社という祠が存在しています。

写真1 里井B遺跡 全景

 余談になりますが、現在は「里井B遺跡」という名称となっていますが、発掘調査時から整理調査時には「里井遺跡」という名称で遺跡地図には登録されていました。ところが報告書刊行前頃、範囲の見直しなどが行われた結果、遺跡名に「B」が付いたのです。あわてて報告書の原稿を直した思い出があります。

 里井B遺跡では、主に弥生時代から古墳時代、飛鳥時代から平安時代前期、平安時代後期から鎌倉時代、室町時代後期の4時期の遺構・遺物が確認され、とりわけ室町時代後期が遺構・遺物ともにもっとも充実した時期となっていました。まさに「邇保庄条里図」と重なる時期となります。遺物には土器をはじめ、さまざまな木製品や金属製品・石製品等がありますが、なかでも炮烙に注目したいと思います(写真2)。

写真2 里井B遺跡出土炮烙

 炮烙は「ほうらく」または「ほうろく」と読み、素焼きの土器で主に食物などを煎るのに用いられる調理具で、中世後期から近世の遺跡において一般的・普遍的に出土し、現代までその用途の幅を広げながら使用されています。ただ、一般的な調理具ではありますが、縁以外は薄く作られているためか、残存度が高いものは数少なく、報告書をみても全体がわかるものはあまり多くなく、一つの遺跡から数多く出土することもあまりないようです。ところが里井B遺跡の調査では、この炮烙が報告書に掲載したものだけでも126点あり、そのうち、底部まで残存し全体像がわかるものは7点あります。出土した炮烙の時期については、初源期の14世紀前半から16世紀前半にわたりますが、15世紀後半から16世紀前半にかけてのものがもっとも多く出土しています。遺跡が拡大・盛行する時期と同じくして炮烙の出土量も増えていきます。

 では、どうして里井B遺跡の調査地から炮烙がたくさん出てきたのでしょうか。理由の一つ目として、炮烙の生産地であったことが考えられます。炮烙の生産地については、同じ旧野洲郡に属する野洲市北桜地区が知られています。しかし、出土した炮烙にはいずれも調理具としての使用にあたって付着して煤がみられます(写真2で黒くなっている部分が煤の付着したところです)。そのため生産地ではなく、消費地とみなすことができます。

 二つ目として「炮烙割」をしていたというものがあります。調査時に、ある先輩職員に「炮烙がたくさん出ている」といったところ、「壬生狂言でもしてたんじゃないか」と冗談で返してくれました。この壬生狂言とは、京都の壬生寺で演じられるもので、30ほどの演目がありますが、とりわけ有名なのが「炮烙割」で、積み上げられた炮烙を舞台から落とし次々と割っていくものです(写真3)。テレビのニュースなどで見たことがある方も多いと思います。もちろん里井B遺跡ではけっして壬生狂言もしていませんし、炮烙割もしていません。炮烙が多量に出土した理由ではありません。ちなみに壬生狂言の「炮烙割」で使われる炮烙ですが、毎年節分に厄除け祈願のため壬生寺に奉納されたものです。

写真3 炮烙壬生寺

 三つ目として、加工食品を生産していた可能性があげられます。15世紀以降、市場商業が広範に発展していきます。荘園商業も展開し、市場も成立していき、地方でも貨幣の獲得が容易となっていきました。そして荘園領主に対しても現物ではなく貨幣で納めるようになっていきます。里井B遺跡のある邇保荘でも、炮烙を使用して食物を「煎る」ことにより、加工食品を生産し、貨幣獲得のための商業活動をしたものと考えられます。ちなみに、貨幣も北宋銭を中心に211枚出土しました。そのうち、194枚が(さし)銭(さしぜに)(ぜに)状態で小穴から出土しましたが、この小穴が調査開始後、最初に掘った遺構だったので、作業員さん達の意気も一気に高まりました。 

(資料活用課 内田 保之)

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