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調査員のおすすめの逸品№399 どうやって運んだの?!―大きな大きな須恵器甕(かめ)―

高島市

 私たちが普段使用している器の源流は、「窯で焼成された器という視点」でみると古墳時代の須恵器という焼き物までたどることができます。今から約1600年前の4世紀末ごろ、韓半島南部から渡来人によって窖窯焼成技術と土器製作技術が伝わりました。

 その技術が伝わった代表的な場所の1つに、大阪府の陶邑窯という須恵器窯が挙げられます。陶邑における須恵器生産は、窯の操業、製品の流通など、倭王権によって直接的に統括されていた可能性が考えられています。

 では、人々が新たに須恵器生産技術を受容したのは、どのような理由があったのでしょうか。

 従来の日本列島では、土師器という野焼きで焼かれた軟質の土器が製作されていました。土師器は、煮炊きをはじめとした火にかけて使用することには長けている一方で、保水性に富まず、壊れやすいという短所もありました。他方で須恵器は、窯で焼成された硬質の土器であるため、煮炊き等で使用するのには不向きですが、保水性に富み、丈夫という長所があります。

 初源期の須恵器窯では、たくさんの器種の中でも特に甕(かめ)や壺(つぼ)といった貯蔵器種の出土が非常に多く占めることが発掘調査で確認されています。このことから、「これまで製作することの困難だった保水性を有する器」の製作に重きが置かれ、すなわち「貯蔵器機能の拡張」が須恵器生産技術を受容した理由として考えられています。土師器と須恵器は互いの短所を補いながら共存していくこととなります。

 さて、近江こと滋賀県では、いつ頃から須恵器生産が始まったのでしょうか。現在までに確認されている限りでは、滋賀県甲賀市水口町に所在する泉窯が県内で一番古い須恵器窯と考えられています。泉窯の操業時期は5世紀末期〜6世紀初頭ごろで、陶邑窯よりも約100年遅れての操業でした。では、泉窯の開窯(5世紀末)以前には近江の各地の遺跡から須恵器は出土しないのか、というと、決してそうではなく、大阪府の陶邑窯から近江の各地域へ須恵器が供給されています。今回は、そんな陶邑窯から近江へ持ち運ばれたとされる滋賀県高島市に所在する下五反田遺跡出土の「大型の須恵器甕」について簡単にご紹介しましょう。

 滋賀県高島市に所在する下五反田遺跡では、5世紀前葉から中葉にかけての須恵器甕が3口出土しています(画像1)。この時期には、まだ近江で須恵器生産は始まっていませんから、大阪府の陶邑窯から持ち運ばれた須恵器と考えられます。写真奥の2口は、人の腰の高さにまで及ぶ大きさの大型甕で、奥左の甕は器高80.5cm、容量176.4ℓ、奥右の甕は器高75.6cm、容量152.2ℓを測ります。2ℓペットボトルで換算すると80本前後の量となるわけですから、かなり大きな須恵器甕ということが理解できますね。

画像1 (滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・滋賀県文化財保護協会  1996)

 では、このような大型の須恵器はどのように運ばれてきたのでしょうか。大阪府の陶邑窯から滋賀県の高島市まで約120kmもの距離があります。当時はもちろんのことながら、電車や車という移動手段はありませんから、水上交通に伴う船での移動や歩きでの移動が想定されます。残念ながら遺跡には運ぶというような「動作自体の痕跡」は残らないため、発掘調査では確認できません。しかしながら、絵巻物などからは探ることができます。伴大納言絵詞から器を運ぶ人々の姿を覗いてみましょう。

 伴大納言絵詞は、平安時代末期の12世紀ごろに常盤光長によって描かれたとされる絵詞で、その題材は貞観8年(886年)における伴大納言による応天門を焼いた事件となっています。絵詞に描かれている人々の日常風景の一端の中には、画像2のように大きな酒壺のような器を背負って運んでいる人物の様子が認められます。

画像2 『伴大納言絵詞』(小松1987)をもとに復元した”酒壺のような器を背負って運んでいる人物”の様子(高島がAIで作成)

 注意深く観察してみると壺には紐が括られており、その下には支えにするための杖が備わっているようです。こうした大きさの壺や甕などは、背中に背負う形で運び、疲れた際には、歩く時に使用していた杖を甕の下に据え、杖を支えにして休んだものと考えられます。下五反田遺跡出土須恵器(画像1)は5世紀代の甕であるため伴大納言絵詞が描かれた時代とは大きく離れていますが、運ぶ姿の参考の1つとなりそうです。写真1手前右側の小型の甕はこうした形で大阪から滋賀県まで運んでのかもしれません。

 ただし奥の2口の甕は到底一人では運べそうにありません。どのように運んだのかはわかりませんが、写真3のような形で木材と紐をうまく使用し2人1組で運んだのかなと想定しておきます。

画像3 高島がAIで作成

 当時生きていたら、うーん、、、自分は小さい器を運びたいですね、、、、オヨヨ。

参考文献

 小松茂美1987『伴大納言絵詞』(日本の絵巻2) 中央公論社

 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・滋賀県文化財保護協会  1996 『主要地方道小浜朽木高島線道路改良工事に伴う1:下五反田遺跡発掘調査報告書 』

 髙島悠希 2025「滋賀県内出土の須恵器貯蔵器1–古墳時代中期を中心に–」『紀要』38号 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 

(調査課:高島 悠希)   髙島悠希の活動状況は【コチラ】 

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