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調査員のおすすめの逸品 №279-2 浅井氏と朝倉氏との交流の証 長浜市 小谷神社石造狛犬 (中編)

長浜市

◆近江における笏谷石文化の流入と本像の位置づけ

写真3: 小谷神社石造狛犬(阿形)
写真3: 小谷神社石造狛犬(阿形)

ところで、笏谷石が多様な宗教文物に加工されるようになるのは、現存遺品から推して鎌倉時代後期頃からと見られます。重文に指定されている元享3年(1313)銘の福井・大谷寺九重塔をはじめ、少数ながら石塔の紀年銘遺品が知られています。こうした単発的な石塔建立から始まった笏谷石加工の動きが、石材産業として発展するのが室町中期16世紀のことで、永正元年(1504)あたりから作品数が増加し、天文年間(1532~55)に一つのピークに達しています。これは丁度、一乗谷に本拠をおいて越前一国を領有した朝倉氏五代の動向に対応するものです。一乗谷に分布する笏谷石製品が、石塔石仏だけで約三千点あり、加えて、多数の日用雑器が発掘されているのもその現われで、朝倉氏の領国経営の一環として、石材産業の興隆が図られたと見てよいでしょう。
そうした中、狛犬の制作が始まります。在銘最古に当たるのが永正12年(1515)銘福井・春日神社像ですが、他に永正銘は一例を数えるのみで、この時期にはまだ稀な存在でした。狛犬が普及するのは、天文から天正年間にかけてで、20対近い紀年銘遺品を含む多数の作品を確認することができます。

写真4: 小谷神社石造狛犬(吽形)
写真4: 小谷神社石造狛犬(吽形)

近江に笏谷石の遺品が移入されるようになるのも、概ねこのころからです。紀年銘遺品を見ると、天文19年(1550)銘大津市西教寺六地蔵石仏が最も早く、同寺には天正12年(1584)銘阿弥陀二十五菩薩石仏も伝来します。また、長浜市須賀神社には天正11年銘の神猿が遺存しており、近江における笏谷石文化の受容が16世紀後半に広がりを見せたことが窺えます。狛犬の在銘品はこれらの諸例にやや遅れて、文禄3年(1594)銘の大津市若宮神社像と同じく長浜市日吉神社像が古く、ともに、16世紀末の様式をよく備えています。対して小谷神社像は、これら文禄期の作品よりもいくつか古様な特徴を持っています。
注目点は、両前肢の付け根の旋毛、尾、たてがみ表現、姿勢の四点です。中でも、本像の最も初発的な要素と言えるのが両前肢付け根の旋毛です。笏谷狛犬では一本ずつ彫出するのが基本ですが、本像は二本ずつ表現している点が注目されます。これは数ある笏谷狛犬の中でも、在銘最古の福井・春日神社像以外には管見に上らない形式です。また、笏谷狛犬の尾は三つの毛束からなる単純な三山型が圧倒的に多く、県内の桃山時代の作品は殆どこのタイプですが、本像の場合は三条ながら蜷局状に巻いています。初発期の狛犬では、在銘最古の春日神社像、それに次ぐ永正18年銘同・中手樺八幡神社像、天文12年銘同・東河原樺八幡神社像など、尾の先端を巻くタイプが主流です。但し、巻き方や細部には相互にかなり違いがあり、本像の形状に近似するものとしては、尾先を横巻きとし毛筋を入れない天文19年銘の同・八幡神社像の阿形(吽形には毛筋がある)を挙げることができるでしょう。
一方たてがみを見ると、最古銘の春日神社像では、先端を巻く断面三角状のたてがみを二・三段に彫出するなどかなり複雑な形状を呈し、続く中手樺八幡神社像や薬師神社像などでは、先端を巻く房状のたてがみが二段に整理されています。本像はもっと単純になり、一段に作られていますが、在銘品でのこのタイプは天文9年銘岐阜・十五社神社像が最も早く、同12年銘の東河原樺八幡神社像がこれに次いでいます。
最後に姿勢についてみると、最古銘の春日神社像とそれに次ぐ中手樺八幡神社像は、阿・吽共、やや拝者側に面を振っています。この形式は、木造狛犬では定型というべき形制で、笏谷で狛犬制作が始まった当初は、これらに範をとり、体を捻り、面を拝者に向ける形式が試みられたことが分かります。但し、社殿に向かい合わせに安置しない小型品の需要が増大したことに加え、この形姿をバランスよく彫成するにはそれなりの技量が求められます。そのため、この二例以降は、すっかりこのタイプが影をひそめてしまい、室町・桃山期の大多数がほぼ正面を向くタイプになってしまいました。小谷神社像もまた、体を捻ることなく、ほぼ正面を向く姿勢をとっています。このように、笏谷狛犬の展開の中に小谷神社像を置いて分析を試みると、二条の旋毛のように、濫觴期に見られる要素もありますが、一段のたてがみやその姿態から推すと永正まで遡らせることは難しく、天文年間あたりにおくのが最も妥当性が高いように考えられます。
天文年間の小谷で想起されるものに、小谷山の北に鎮座する和泉神社に、浅井久政が天文21年(1552)奉納した鍔口があります。当社はその名の通り、この地の水源を司るとともに、小谷城の北の守りに当たる神でもあります。そして、久政奉納から20年を経た元亀2年(1571)に、今度は朝倉義景が久政奉納品と同寸同大の鍔口を当社に奉納しています。この一件からも、浅井・朝倉両家の結びつきの強さがよく窺えます。小谷神社は現在、小谷山麓に立つ小谷寺に隣接して所在していますが、小谷山南尾根の最高所に当たる山王丸に祀られていた山王社をこの地に移したと伝えられています。であれば、浅井氏と友好関係にあった朝倉氏の所領から運ばれた石造狛犬が、当社に伝来したことの意味はさらに大きいものがあります。
このように本像は、銘記こそ刻まれていませんが、様式的には浅井・朝倉両家滅亡以前の作と考えられ、和泉神社鍔口や小谷城址出土の笏谷石製バンドコ(火箱)とあわせ、両家の交流により齎された遺品と見做されます。破損が著しい点は惜しまれますが、滋賀県下最古の石造狛犬として、浅井・朝倉両氏の結びつきを物語る資料として、貴重な存在となっていることがお分かりいただけたのではないでしょうか。なお、蛇足ながら、笏谷狛犬は両前肢に刻銘を入れることが多く、或いは造像当初、ここに奉納年や願主の名が刻まれていた可能性もあるでしょう。上記の通り、近年まで境内地に雨ざらしのまま置かれていましたが、現在は近在に建設された小谷城戦国歴史資料館に保管されるようになったのは喜ばしいことです。(後編に続く)  (山 下 立)

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