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調査員のおすすめの逸品 №285 割られた石材・割られなかった石材-彦根市荒神山の矢穴の残る石

彦根市
写真1 矢穴のある石
写真1 矢穴のある石

16世紀後半、石垣・瓦・礎石建物をもつことが特徴である織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)が誕生しました。それらは以降の城郭建築に多大な影響を与え、現在残されている城郭にもその特徴が受け継がれています。その要素のひとつである石垣の石材には、石工が石を割る際に入れた矢穴(やあな)が残されているものが多くあります。矢穴とは石材を割る際に、割りたい箇所に墨で線を入れたあとノミ等で彫り込みを入れた痕を指します。ノミで彫り込みをした箇所にクサビ状のものを打ち込みことで石材を割るため、破断面に矢穴が残るのです。
矢穴の大きさは、時代が新しくなるにつれて小さくなる傾向があります。朝鮮半島で7世紀前半には認められます。しかし、日本では中世石造物や寺院石垣に見られる矢穴が先駆的な事例です。永禄~文禄年間(1558~1596年)頃のものは大きさ等にばらつきがあり、個体差がみられます。慶長5年(1600年)頃から寛永期(1624~1645年)のものは、上部の長辺8~12cm、短辺5cm、深さ6~10cmぐらいの大きさです。18世紀後半以降は上部の長辺の長さが6cm程度、深さが5cmとかなり小さくなります。

写真2 割られなかった石
写真2 割られなかった石

私が学生だったころ、といってもほんの数年前ですが、調査で彦根市の荒神山古墳群の測量に数回だけ行きました。そのときに、山中を散策していたら、大きな矢穴のある石材が散見されました(写真1:白線が破断面の矢穴)。写真の奥に写る人の足と比べても矢穴のサイズ自体が大きいことがうかがえます。つまり、江戸時代初期頃に割られた石材と考えられます。石材は湖東流紋岩(ことうりゅうもんがん)と呼ばれる湖東地域で産出される石材で、彦根城の石垣にも用いられています。そして、荒神山は彦根城の石垣石材の搬出地のひとつだったことを考え合わせれば、荒神山に江戸時代初期頃の矢穴の残る石材が残されていても違和感がありません。その中に矢穴を入れたものの割られていない石材があります(写真2)。矢穴を入れたにもかかわらず、割られていないということは、諦めたか、石材自体が不要になったために、そのまま残されているのでしょう。
当時の石工が手間をかけて割る準備をし、あと少しというところで割らなかった石材。実は搬出地以外でも搬入地で見ることができます。例えば兵庫県の姫路城の大手門の手前に「史蹟姫路城」の石碑がありますが、その後方にも矢穴が入れられているものの割っていない石材が石垣に用いられています(写真3:左方赤枠内)。

写真3 姫路城の矢穴
写真3 姫路城の矢穴

近世城郭の石垣に見られる矢穴。地味ながら当時の石工の思考が込められた逸品です。城郭探訪をされた際には、天守閣や石垣の大きな部分だけではなく、石材をじっくり見ながら矢穴探しをしてみてはいかがですか。面白いと思いますよ。(福井 知樹)

≪参考文献≫
森岡秀人(2017)「第4章 織豊系城郭における遺構と遺物 9 矢穴技法」『織豊系城郭とは何か その成果と課題』サンライズ出版

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