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調査員のおすすめの逸品 №332《滋賀をてらした珠玉の逸品⑨》琵琶湖の縄文人に安心を与えていた最新型の精霊像ー大津市粟津湖底遺跡第3貝塚の土偶ー

大津市

今回ご紹介するのは縄文時代の土偶です。土偶とは人の形を模して作った土製品です。今回は特に大津市粟津湖底(あわづこてい)遺跡の第3貝塚から出土した土偶を逸品としてご紹介します。

画像1 頭部1・第3貝塚巻頭図版6-1
画像1 頭部1・粟津湖底遺跡第3貝塚巻頭図版6-1


 粟津湖底遺跡は、大津市の南部、琵琶湖と瀬田川のちょうど境目あたりに位置する縄文時代の遺跡です。縄文時代、この遺跡はまだ陸上にありましたが、その後の水位上昇によって水没し、現在は琵琶湖の底に静かに眠っています。
 この遺跡からは、これまで3つの貝塚が確認されています。その第3貝塚を1990~1991年に発掘調査しました。出土した土器の分析から、第3貝塚はおよそ5,000年前の縄文時代中期の初めころのものだと判明しています。
 今回紹介する逸品は、その時に出土した土偶の頭部1と頭部2です(画像1・2)。どちらも首から下の部分はどうしても見つかりませんでした。それぞれの残存部の大きさは、頭部1で縦4.1㎝、横5.2㎝、厚さ3.3㎝、頭部2で縦6.9㎝、横8.9㎝、厚さ5.1㎝です。
 さて、縄文時代の土偶は、これまで膨大な数のものが全国で見つかっています。歴史の教科書にも必ず載っている有名な考古資料の1つですが、実際はどんな役割を持つ道具だったのでしょうか?

画像2 頭部2・第3貝塚図版66-2
画像2 頭部2・粟津湖底遺跡第3貝塚図版66-2


 この点については、考古学界では明治時代から議論されてきましたが、今なお決着していません。それだけ難問なのですが、有力仮説は大きく分けて3つあります。その第1は「女神像説」に結び付く諸説です。乳房や妊娠を表現した資料が目立つことからこれらの仮説は生まれました。第2と第3の仮説は「依代(よりしろ)説」と「精霊像説」で、最近はこの2つのどちらかに結び付く仮説が目立つように見えます。考古学者の中でも意見は分かれたままで、中にはこれらを組み合わせながら説明される方もおられます。
 では、土偶の出現とその後の展開はどうだったのでしょうか?これについては、縄文時代前期の終わり/中期のはじめ頃──今からおよそ5,000年前──を境として、それより前の古段階と、それより後の新段階に分けると理解しやすくなりそうです。
 日本最古級の土偶は、わが県の東近江市相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡のもので、今から13,000年前(縄文時代草創期後半)のものです(画像3)。この時期のものからおよそ5,000年前の縄文時代前期の終わりまでが古段階です。この時期の土偶は、初期の土偶ということで「初期土偶」と呼ばれ、全国で数百点が発見されています。
 新段階は、およそ5,000年前の縄文時代中期のはじめ頃より後が相当します。この段階は、土偶の数が一気に激増した段階で、全国で数万点の出土が確認されるようになります。粟津湖底遺跡の土偶は、まさにこの土偶激増の時代への移行期に位置づけられるものです。

画像3 相谷熊原遺跡土偶
画像3 相谷熊原遺跡土偶(切手とともに)


 興味深いのは、古段階と新段階で土偶のあり方が大きく変容することです。古段階のあり方の特徴は、頭部の作りが曖昧で、顔の表現がないことです。先に紹介した日本最古級の相谷熊原遺跡の土偶などはその典型例です。この典型例と同様に、古段階の「初期土偶」は、その末期の例外を除き、押しなべて「顔なし土偶」です。
 一方の新段階にも「顔なし土偶」は存在します。しかし、この段階のあり方の特徴は、頭部の作りがしっかりしているものが多く、目・鼻・口がばっちり表現されている「顔あり土偶」が量産されていることです。国宝に指定されている長野県棚畑(たなばたけ)遺跡の土偶などがその典型例と言えるでしょう(画像4:茅野(ちの)市教育委員会1990『棚畑』)。
 この「顔あり土偶」は、縄文時代中期の始まり頃を境に出現した新型の土偶です。その発祥・誕生の地は、長野県や山梨県といった中部高地にあり、最初の波及範囲の東端は三内丸山(さんないまるやま)遺跡のある東北北部や北海道南部、西端は琵琶湖周辺まで至りました。
 今回取り上げている粟津湖底遺跡の頭部1と頭部2は、この新型土偶が波及した範囲の最西端の例に相当します。また、「顔あり土偶」が発祥・誕生した直後の縄文時代中期の初め頃のものであるということを踏まえるなら、時代の最先端に息づいていたものだったということにもなります。そういった意味で、私はこの土偶の頭部1と頭部2は、滋賀県が誇るべき文化的遺産であり、全国的な視野から評価すべき逸品だと考えています。

画像4 茅野市教育委員会1990『棚畑』
画像4 棚畑遺跡出土土偶(茅野市教育委員会1990『棚畑』)


 ちなみに、相谷熊原遺跡の土偶に代表される「顔なし土偶」を、私は「依代」だったと考えています。依代とは、霊的な存在──精霊などが憑依(ひょうい)するための対象物のことです。精霊が憑する前の「依代」だったからこそ、「顔なし土偶」には目・鼻・口などがまだ一切表現されていないのです。
 一方で、「顔あり土偶」は「精霊像」だと考えています。霊的な存在が既に憑依している「精霊像」だからこそ、その顔が明確に表現されているのです。強い精霊を憑依させて作ったならば、コワモテの顔や奇怪で恐ろしい顔をもつ土偶になったことでしょう。かたや、優しさや安らぎを求めて精霊を憑依させていたならば、ニコニコとほほ笑んだ温和な表情をもつ土偶として造形されていたはずです。
 粟津湖底遺跡の土偶の場合、頭部1はキリっとした面立ちです。イレズミのような表現も加わっており、少し恐ろしい雰囲気に仕立てられているので、災いや危険の元を遠ざけ、安心・安全を祈るための精霊像だったように思えます。
 対する頭部2の表情にあるのは、まさに満面のほほえみ。きっと心優しい精霊をお招きしたものに違いないと私は推察していますが、皆さんはどう感じられますか?
 (瀬口眞司)
<出典>
滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会『琵琶湖開発事業関連埋蔵文化財発掘調査報告書1 粟津湖底遺跡第3貝塚(粟津湖底遺跡Ⅰ)』(1997.3)
茅野市教育委員会『棚畑』(1990)

◇◇粟津湖底遺跡の土偶は、2022(R.4)年夏から秋の当協会の展示『滋賀をてらした珠玉の逸品-スコップと歩んだ発掘50年史-』で滋賀県埋蔵文化財センター1Fロビーにて展示されます。会期:7月23日(土)~11月18日(金)(土日祝休館・7/23~9/4の期間は無休)。ぜひ見に来てください。

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