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調査員のおすすめの逸品 №334《滋賀をてらした珠玉の逸品⑪》ひしめく村々の守り神ー木札から中世のムラを想像するー

彦根市

それは、夏の暑い日のこと、わたしは彦根市に所在する賀田山(かだやま)遺跡で、鎌倉時代から室町時代の集落跡を発掘調査していました。そこでは掘立柱建物や、畑地の跡など、中世の小さなとあるムラのあり方を示すような遺構がたくさん見つかっていました。

写真1 出土したての巻数板
写真1 出土したての巻数板


 その中で土坑(大きな穴)のひとつを掘っていたところ、一枚の木札が出土したのです。14世紀のもので、絵馬のような形、墨で描かれた「南」という文字、さらには「大日如来(だいにちにょらい)」など12の仏の名が記載されていました。
 実はこれ、「巻数板(かんじょういた)」という屋敷や集落を護るための木札で、日本でも数えるほどしか出土していないシロモノなのです。(写真1・2)かつて人々は、病、飢え、死など、人に苦しみを与える「厄災」は、境界の外からやってくるものと強く信じていました。お正月、境界にこの木札を吊るすことで結界し、さまざまな苦しみから家族、または集落を護っていたといわれています。
 滋賀県では、平成26年度に松原内湖(まつばらないこ)遺跡から出土した14世紀代の巻数板に次いで2例目となります(おすすめの逸品第212回)。巻数板には、読誦された経典や、仏さまへの願い、そのために立てたお札の数などが書かれることが一般的でしたが、こういった風習が村々へ広がるにつれ、さまざまなバリエーションが増えていった結果、賀田山遺跡出土のような12の仏の名を示すようなものも現れたのでしょう。そしてその巻数板を使った行事が、全国でも一部の地域、特に滋賀県内で現代まで色濃く続いていることは驚きです(近江名所図会第181回・第269回)。

 そんな巻数板を使った行事について、中世の近江、特にムラの境界と関連させて少し考察を広げてみましょう。集落とは、居住域を示す「ムラ」、その外側に広がる耕地である「ノラ」、さらにその外側に広がる資源を得るための里山などを表す「ヤマ」の3つを合わせて、ひとつの集落の領域が成り立っていたという考え方があります。そして、そのそれぞれの境界で行事が行われ、そのひとつが巻数板を使った行事だったといわれています(福田1982)。

写真2 巻数板 赤外線撮影
写真2 巻数板 赤外線撮影


 もちろんそこには、境界の外からやってきて、人々を苦しませる厄災を防ぐ目的もあったでしょう。私はそれに加えて、ひしめく村々が、自分たちの境界、自分たちの領域を他のムラから護るために行った措置のひとつとも考えています。中世という時代、その主役のひとりは間違いなく「村人」でした。自分たちの領域を護るため、時には権力者をも巻き込んで訴訟合戦を行う、そんなダイナミックな生き方をしていたのが中世の村人たちだったのです。
 歴史上、その最も有名なものの一つが滋賀県のとある村で勃発しました。琵琶湖の北端にある菅浦(すがうら)と大浦(おおうら)、ふたつの集落の間で勃発した、ほんのわずかな耕地を巡る訴訟合戦です。村人たちにとって領域を失うことは、集落の生命線を断たれることと同じであり、それを護るために、さまざまな手法を駆使し、時には幕府・朝廷をも巻き込んで、時に武器を手に取って、命がけで戦っていたのです。そのさまざまな手法のひとつが巻数板を使った行事であり、厄災を防ぐとともに、集落が団結して領域を護るひとつの象徴たる行事だったのではないでしょうか。
 近江は都のすぐ隣に位置しています。激動の中世、度々起こる都での動乱は当然のことながら近江にも大きな影響をおよぼしたことでしょう。そんな外圧から領域を護る術のひとつとして、近江では地域でまとまる地縁的結合がいち早く成立しました。そんな地縁に結ばれた村人たちが、集落の団結を図るとともに、領域を護るために巻数板を使った行事を行った、そんな村の風景をわたしは想像しています。

 中世の村の姿をリアルに描き出しているであろう一枚の木札。みなさんは、この木札からどんな村のようすを思い浮かべますか?
(木下義信)

<参考文献>
滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2019)『賀田山遺跡』
福田アジオ(1982)『日本村落の民族的構造』弘文堂

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