記事を探す

オススメの逸品

調査員オススメの逸品 第224回 薬壜(くすりびん)の数奇な運命

東近江市
写真2 部分拡大
写真2 部分拡大
写真1 出土した薬壜
写真1 出土した薬壜

蛭子田遺跡からの出土品は、私をはじめ調査に携わった調査員達が、これまでに幾度となくこのコーナーで紹介してきました。木製壺鐙・曲物・伐採木・丸木舟もどきなど、どちらかというと古墳時代の木製品を中心に語ってきました。このことは、木製品だけで何度も紹介できるほど蛭子田遺跡からは、豊富であるのみならず特徴的な木製品が多く出土したからにほかなりません。まだまだ皆さんに紹介したい木製品は多々あるのですが、今回はやや趣向を変えてみたいと思います。
蛭子田遺跡が所在する東近江市木村町は、隣接する横山町とともに名神高速道路敷設の関連により、昭和34年より水田の区画整理が開始され、昭和37年に完成しました。同じ旧蒲生町の他地域のほ場整備事業が昭和50年代より始められたことからすると、かなり早い時期に行われました。時は移って平成23年初春、第5区と名付けた地区の調査を行っていました。この調査区からは弥生時代中期の方形周溝墓や古墳時代の河川、飛鳥時代・平安時代の掘立柱建物や溝などが見つかっています。この調査区の中央を東西に貫くようにやや湾曲した一筋の水路跡もみつかりました。ところが、この水路に埋まっている土は他の遺構と異なり、新しく埋まったような汚らしい感じのものでした。案の定、掘削してみたらガラスの破片や茶碗のかけらなど、そう遠くない過去の物品が出てきたのです。この水路こそ、昭和30年代の区画整理の時に埋まってしまったものなのです。業界用語でいうところの「撹乱(カクラン)」というやつです。今回紹介する薬壜はこの水路から出土しました。
この薬壜は透明ガラス製で、欠けるところのない完形品です。器高は14.3cm、最大幅は肩部にあり6.28cm、底部幅は6.06cmとなり、下方へ向けてややすぼまっています。この横幅に比べて、厚みは4.89cmとなっているため横断面はやや扁平となっています。口縁部は幅広の玉縁状となり、口径は2.10cmを測ります。この口縁部の形状から、封は王冠やスクリューキャップのような蓋類ではなく、コルクなどのようなもので栓されていたものと考えられます。そしてこれが薬壜である証拠となるのが、体部に浮き彫りにされた「横矢醫院」の名称と目盛りとなる刻み目です。医院名がガラス製の壜に付けられていることから、横矢医院専用に作られた特注品であったことがわかります。この薬壜は昭和30年代前半、水田耕作をしている時に水路にゴミを捨てるとは考えにくいので、捨てても溝さらえをするであろうから、このような完形品のガラス壜は水路には残らないでしょう。そんなのことなどをふまえて想像すると、おそらく区画整理をする直前で、水路としての機能が果たせなくなる頃に、隣接地の耕作者が仕事の合間に横矢医院で処方してもらった薬を飲んだ後、水路に捨ててしまったのでしょうか。
これだけでは、たんに由来のわかる薬壜の紹介と捨てるにいたった経緯を推理するだけになってしまいますが、本ストーリーの本番はこれからです。
この薬壜が出土した時、当然のこと土で汚れていました。完形品ということもあるうえ、文字らしきものが見えたため、その辺にあった水たまりで軽く洗ったところ、「横矢医院」の文字が確認できたのです。その場所で「横矢医院って書いてある」と話をしていると、地元に詳しい作業員のTさんが、「横矢医院っていうのは、蒲生病院の近くにあったんだけど、今はもうやめていてそこの場所は肉屋さんになっている」と教えてくれました。さらに「横矢医院の人は、今は近江八幡で歯医者をしている」ということまで付け加えてくれました。なんという事情通でしょう。その時はそれで終わりました。薬壜も撹乱出土の現代物ということで、普段であれば廃棄してしまうところでしたが、なぜか捨てられず、他の遺物とともにきれいに洗浄してとっておきました。横矢医院のあった場所も、数ヶ月後に現場でちょっとしたアクシデントがあり蒲生病院へ行かねばならないことがあった折り、Tさんに教わった場所を偶然見つけることができました。
時はさらに経過して1年、平成24年初春に無事現地調査も終了し、現場事務所もたたみました。私は、それらの出土品や図面類をかかえ補助員さん達とともに、年度内は安土城考古博物館内にある整理室で遺物の洗浄作業や図面整理を行うこととなりました。そこでなんと驚きの出会いです。薬壜が出た時に一緒に調査をしていた調査員のHさん、次年度から調査整理課(安土城考古博物館内)に異動になっていました。私がいってしばらくしてから、年度当初から来ているある女性の補助員さんを紹介してくれました。それまであまり調査整理課へ来ることがなかったので、失礼ながらその時は存じていませんでした。なんとこの方が「横矢さん」だったのです。しかも実家は近江八幡の歯医者さん。ちなみにHさんは早くから知っていたみたいです。こんなところで繋がるなんて、世の中って面白いですね。その後、捨てずに取っておいたあの薬壜、横矢さんへ進呈しました。半世紀あまりの歳月を経て、薬壜は子孫の元へ戻ったのです。今でもちゃんと保管してくれてるみたいです。

内田 保之
Page Top