オススメの逸品
調査員のおすすめの逸品 No.59 Bigな住居は何のため!? -相谷熊原遺跡の竪穴建物
滋賀県埋蔵文化財センターでは夏休みの期間中、『体感!夏休み発掘速報2011』が開催されています。昨年度に県内の発掘調査現場で出土した考古遺物や遺跡の説明がわかりやすく展示されています。夏休みの自由研究をどうしようか、などと悩んでいるチビッコ&お父さん・お母さん、どうぞお越し下さい。必ずやお役に立つはずです。
さて、今回はこの展示に便乗し、会場でも展示されている相谷熊原遺跡の竪穴建物について紹介しましょう。
相谷熊原遺跡は鈴鹿山地の麓、東近江市永源寺相谷町で見つかった縄文時代の遺跡です。平成21(2009)年度からの発掘調査で、縄文時代草創期(今から約13000年前)の竪穴建物が5棟発見されました。そのうちの1棟から国内最古級の土偶が発見されています。
5棟の竪穴建物は少しいびつな円形をしており、最大のものでは直径が約8メートルあります。しかも竪穴の深さは1mほどで、後世に削平されていることを考えると、竪穴はもう少し深かったと思われます。また、5棟のうち最も低い場所で見つかった5号建物(断面の剥ぎ取り写真を展示中)については、途中で建物を拡張しています。
全国の事例を見渡してみると、発掘調査によって見つかった縄文時代草創期の竪穴建物は約70棟存在します。いくつかの事例を除けば、浅く地面を掘り込んだだけのものが多く、相谷熊原遺跡のように1メートル以上の掘り込みを行っているものはほとんどありません(青森県八戸市の櫛引遺跡では直径約6メートル・深さ約1メートルの竪穴建物が1棟発見されています)。今回の発見によって、初現期の竪穴建物の中には相谷熊原遺跡のような、ある程度完成された形態のものが存在していることが明らかとなったのです。
さて、5棟の建物が同時併存していたかどうか、時期差があるのか、という問題についてですが、見通しとしては時期差をもって存在していたと考えています。年代測定については測定資料の残存状況等の制約もあり、5棟中3棟の資料でしか実施できませんでしたが、完全に年代が一致するというものではありませんでした。いっぽう、出土遺物の編年研究から考えます、概ね草創期後半になることは間違いありませんが、現時点での研究ではさらに細かい時期差を指摘するまでには至っていません。
ここでは仮定に基づく話しかできませんが、5棟の建物に時期差があったとした場合、同じ場所に同じような規模の建物を継続して造るという行為、いわば規範の伝承があったことは確実だったと考えられます。
では、なぜ直径8メートルにもなるような大形の竪穴建物を造る必要があったのでしょうか。縄文時代草創期にはスコップなどの鉄やアルミ製の掘り道具はありません。打製石斧を土掘り具として使用していたと考えられていますが、相谷熊原遺跡では打製石斧の出土量は極めて少ないことから、棒や骨角器も穴掘り具として使用していた可能性も考えられます。
現代では想像できないような手間をかけて、これだけの大きな建物を造る必要性は何なのか。想像の域は出ませんが、相谷熊原遺跡の縄文人はあれだけの規模の建物が必要な人員を維持しなくてはならず、必要に迫られて直径8メートルもの竪穴建物を造り続けた、そんな可能性が考えられます。
旧石器時代以来、少人数で簡易なテントを持ち運ぶ、あるいは洞窟・岩陰を居住空間として利用しながら獲物を求めて移動する生活から、一定の場所に生活の拠点を築き、そこをベースに食料を獲得していく生活様式へと変化していきます。その変化を促したのが竪穴建物だと考えられていますが、そこには様々なドラマが存在したはずです。
相谷の地で一時期ではあれ集団で生活する必要性があった、その要因については今後の検討課題ですが、琵琶湖と伊勢湾を結ぶ交通の要衝に立地するという遺跡の性格を考えると、すでに13,000年前にヒト・モノの交流の原形が出来上がりつつあり、相谷熊原遺跡がその交流拠点として機能していた可能性も考えられるのです。
(松室 孝樹)