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調査員のおすすめの逸品 No.86 魔除けの呪文「急々如律令」に遭遇 ―彦根市妙楽寺遺跡の呪符木簡―
滋賀県では、発掘調査を行いますと多種多様な木製品が出土します。
今から25年前の昭和62年(1987)、私は彦根市妙楽寺(みょうらくじ)遺跡を調査していました。室町時代の町屋状に区画された集落跡がみつかり、川の跡から多量の箸などの木製品とともに木簡11点が出土しました。表面にぼんやりと「急々如律令」や「□(梵字)罡」・「九字」・「天罡」といった文字や、□(四角)が繰り返された記号などの墨書がみえるではありませんか。裏面に「物忌」と判読できる「物忌札」も5点ありました。これらは呪符木簡(じゅふもっかん)といわれるもので、宗教儀礼との遭遇です。
木簡といえば、行政文書や地方から税として納める荷物に付ける荷札木簡が一般的で、滋賀県では野洲市西河原遺跡から出土した飛鳥時代~奈良時代の木簡が有名です。妙楽寺遺跡の木簡は荷札木簡などとは形が違い、上端は三角形で下端を尖らせていています。ほとんどの先端は腐食していることから、地面に突き刺していたと考えられます。役割を終えたのでしょう、川に捨てたようです。
さて、発掘調査が終わった後は、これら宗教儀礼に関係する木簡を報告書にまとめなければなりません。全国の出土例を探し、呪句・用語の意味や、木簡としていつから使用され、中世ではどのように使われていたのかといった研究史・宗教史など、一から勉強です。調べてみますと、中世は民間信仰・民間儀礼が都から全国へ展開していく頃だということがわかりました。
木簡学会が全国の木簡を集成していました。それによると、呪符木簡は奈良県藤原京跡や元興寺、広島県草戸千軒町遺跡などで出土していて、滋賀県でも大津市東光寺遺跡などで出土していました。さらに、水野正好先生や和田萃先生が中心となって考古資料と文献資料を用いて学術的に研究・考察されておられ、また、宗教学の分野では村山修一先生や木下密運先生が研究されておられました。しかし、呪符木簡の研究は宗教の教義に結びつく信仰や呪術行為に関連するため、あまり手の付けられていない研究分野でした。上記の先生方の研究成果を参考にさせていただき、新たな分野へ挑戦して妙楽寺遺跡の報告書をまとめました。当時、宗教儀礼を勉強したことは、今では大きな財産になっています。
その時を思い出しながら、代表的な呪句をみていくことにします。
「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」は中国の漢代に行政文書に使われた言葉で、「急いで律令のように行うよう」と命じるものです。日本に伝わったとき、道教の流れをくむ陰陽道(おんみょうどう)により、朝廷儀礼や貴族達が魔除けを行う場面などで「早々に退散せよ」と悪鬼を払う呪文になったといわれています。映画では、安倍晴明が小声で唱えるシーンがあります。
「九字(くじ)」とは「臨兵闘者皆陣列在前」の九つの文字を指します。この九字を唱えながら、手を空中で四縦五横に切る所作をしたり、結印(けついん:仏やの札の徳を表すために指でさまざまな形を作ること)をしたりします。これも陰陽道で用いられる呪文ですが、道教でも用いられています。また、日本伝来後に密教や修験道に取り入れられ、入山する時に唱えるなど、どんな強敵にも恐れない護身の法、護身の秘呪といわれています。
「物忌(ものいみ)」は、内側は何らかの不幸があってケガレが充満しているのでそれらが出ないようにすることで、そのことを外部に知らせるために、門口の前や家の前に「物忌」と書いた札を突き刺したり、柱に貼り付けたりしたといわれています。材質は古代から中世にかけては木製でしたが、中世末から近世初頭頃に紙製に変わっていったとされています。現在、お葬式のある家の玄関口に「忌中」や「忌」の札を貼る風習の原型です。
「天罡(てんこう)」は道教の神:天罡星のことで「北斗星」を指し、罡は疫病からのがれ、移さない呪字とされています。天罡とは天変地異を止め、病気を治癒し、死者や祖先の鬼を救い、現世の人々の幸福・安堵を祈る呪句で、呪符の中ではポピュラーといわれています。宮都の大極殿が太極である北極星を表しているように、星は古代から信仰されています。
ところで、「呪」という字には「呪符」と「呪詛(じゅそ)」の両面性があり、人が持つ「明暗」や「表裏」に関係します。呪符は護符(お守り)であり、良いことや願いを祈念することです。呪詛は厭忌(えんき:いみ嫌うこと)・厭魅(えんみ:妖術で人をのろうこと)を表し、人の不幸を願う暗黒面の言葉です。この呪詛に対抗する呪いもあります。
なお、お経や念仏は同じ言葉を何度も唱えれば唱えるほど、写経は何度も行えば行うほど、効果は高くて願いがかなえられるといわれます。呪符木簡の語句や記号の繰り返しの多いことは、ほかの宗教儀礼や信仰に共通する観念といえます。また、記号や文字の組み合わせを複雑にすることも、同様の考え方によるものといえます。
医学や科学などが発達していない古代や中世においては、庶民はどのような信仰を心の支えとしていたのでしょうか。病は疫鬼が原因と信じられ、神仏や僧侶・神官・修験者・聖(諸国を回遊した僧侶)・陰陽師などに除霊・疫鬼払いを願っていたと思われます。祇園祭は、貞観11年(869)疫病流行の時、御霊を送ったのが最初といわれ、応仁の乱で中絶後、明応9年(1500)に復活し、町衆が中心となって山鉾も華美になっていきます。現在行われている宗教儀礼や祭礼の原型のほとんどは、中世から近世初頭にあるといえます。
葛野 泰樹 (H24.07.07 (七夕)に記す)