新近江名所図会
新近江名所圖会 第151回 緊迫の東アジアの中で -松尾宮山1号墳-
時代の始まりを定義することは難しいものですが、実は、終わりを定義することはもっと難しい問題です。古墳時代についても、その始まりを定義した「前方後円墳」が6世紀末頃に造られなくなった後も、7世紀前半まで大型古墳は継続し、7世紀半ば頃まで群集墳は活発に造り続けられます。さらに、有名な「高松塚古墳」は7世紀末~8世紀初頭頃の築造ですし、一体、古墳時代はいつ終わるのでしょうか? そんなややこしい議論はともかく、一般には、前方後円墳の消滅以降に造られた古墳を「終末期古墳」と呼んでいます。
さて、終末期古墳といえば、飛鳥(奈良県)や近飛鳥(大阪府)が有名ですが、長浜市高月町にある松尾宮山1号墳は、滋賀県を代表する終末期古墳として注目される存在です。「何でこんな所に?」と思うほどの急斜面をさらにえぐるように整形して墓域を設定し(地形を見ればそうとしか思えません! 現地からの帰路にその過激さを実感できます。滑り落ちそうです)、その中央にコ字形の石積み基壇を構築し、さらに、その上に多角形(形は報告書を含めて諸説あります)の墳丘が築かれています。墳丘には横穴式石室を営み、その内部には兵庫県高砂市付近から運ばれてきた石棺(竜山石製家形石棺:現在最も東および北に運ばれた竜山石製石棺で、これだけでも必見です)を納めています。荘厳かつゴージャスな古墳なのです。
ただし、墳丘そのものの大きさは直径14m程度で、見た目に対してコンパクトに造られているのは、終末期古墳の所以(ゆえん)です。さらに、横穴式石室はやや雑な石積みですが、年代的には漆喰や白泥が塗られていても不思議ではないので、今後徹底した調査と分析が必要といえるでしょう。出土した土器類から、7世紀半ば(第2四半世紀)頃の築造と考えられ、当時の滋賀県内の古墳としてはダントツのトップクラス、大和や河内にあっても決して見劣りしない、相当な有力者が被葬者として浮かび上がるのです。
おすすめPoint
なぜ、こんなにゴージャスな古墳が築造されたのか。これは、当時の国際状況の中で考える必要があると考えています。6世紀以降に顕著になる新羅の拡張政策に対して、「倭国」でも国防の強化などの体制整備が進められます。長崎県壱岐(いき)島はまさに最前線として大型古墳の築造が相次ぎ、瀬戸内航路に沿っては、山口県防府市大日(だいにち)古墳や広島県福山市大佐山白塚(おおさやましろづか)古墳などがその動向を示すと言われています。同時に、570年の高句麗来朝や658年の阿部比羅夫の北方探検が示すように、日本海沿岸に沿って北上する北回り交通路もこの頃から整備が進められ、石川県小松市の金比羅山(こんぴらやま)古墳群などがこれと関連するようです。
畿内と北陸を結ぶ琵琶湖の北端に位置する松尾宮山1号墳も、こうした緊迫の東アジア情勢の中で進められた日本海交通整備の一環として、琵琶湖の北に築造されたと考えることができるのではないでしょうか? 付近には、高句麗に起源を持つ横口式石槨を採用した古保利A-22号墳という終末期古墳(現在は埋め戻されていて見学不可能、残念! 年代は松尾宮山1号墳と同じ頃かちょっと前です)も存在し、この地域の重要性を示しています。
終末期古墳は、7世紀代の政治状況を敏感に反映して築造されることに特徴があります。湖北の小さな古墳から、風雲急を告げる東アジア情勢に思いを馳せる。これぞ古墳巡りの醍醐味なのです。
周辺のおすすめ情報
長浜市高月町域は、古墳の宝庫として知られていて、国史跡古保利古墳群(高月町西野)や山畑古墳群(高月町松尾)などがあります。しかし、ここまで来たら、観音さまにお参りしましょう。松尾宮山1号墳からほど近い西野薬師観音堂(高月町西野)には、重要文化財の十一面観音さまと薬師如来さまが安置されています。見学には予約と拝観料が必要です。また、高月観音の里歴史民俗資料館(高月町渡岸寺)にも足を運んでみましょう。幾つかの観音さまが展示されているほか、多くの情報も集まっていて、観音さま巡りの基地にも最適です。
アクセス情報
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(細川修平)
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