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新近江名所図会

新近江名所圖会 第188回 百済寺-中世の僧坊酒-

東近江市
百済寺本堂
百済寺本堂

釈迦山百済寺は、金剛輪寺・西明寺とともに湖東三山の一つに数えられる天台宗の寺院です。寺伝によると,その創建は推古14年(606)と伝えられており、中世末頃の寺域は東谷・西谷・南谷・北谷の尾根筋ごとに僧坊が点在するほどの広大なものでした。しかし,鎌倉・室町時代の百済寺の歴史をたどると、火災や兵火による堂舎の焼失が相次いだことがわかります。そのような受難の歴史をくぐり抜けて残された考古資料や歴史史料からは、威容を誇った中世百済寺の姿を垣間見ることができるのです。今回ご紹介する酒造りの歴史もその一つといえます。
寺院における酒造りは、文献史料では8世紀までさかのぼることができます。薬師寺の僧景戒が著した『日本霊異記』(中巻)「寺の利を息す酒を貸り用ひて、償はじして死にて、牛となりて役はれ、債を償ふ縁 第三二」に薬王寺の薬分の酒を貸りた男が、その代金を返済せず死んだため、牛に生まれ変わって農作業に使役されながら酒の代金を償う話が記されています。「寺の利を息す酒」とあるので、薬王寺の酒造りが利潤を目的としていたことは明らかでしょう。
中世寺院においても、自家用の域を超える酒造りがおこなわれ、公家や武家、僧侶などから高い評価を得ていたことが日記などの記述から知ることができます。なかでも,寺院名が見えるものに、河内の天野山金剛寺の「天野酒」、奈良の菩提山正暦寺の「菩提泉」、そして近江の釈迦山百済寺の「百済寺酒」などがあります。
百済寺で醸造された酒は「百済寺酒」・「百済寺樽」と呼ばれ、15世紀末頃―室町時代末期に、都の貴族や僧侶の記録類にその名が登場します。相国寺鹿苑院蔭凉軒主の公用日記である『蔭凉軒日録』延徳3年(1491)8月2日条には、蔭凉軒主である亀泉集証のもとに江州より方樽一双の百済寺酒がもたらされたことが記されています。また,近世に同寺の中世史料をまとめた『百済寺古記』の中には、寺からの支出項目として,法会における酒の配分や「夏酒」・「冬酒」といった酒の別が記録されています。こうした諸記録から、自家用を超える酒の醸造場所が百済寺内にあったと考えられるのです。
百済寺境内地の発掘調査では、最大径が1m近くある大型の甕を埋めた列状の遺構が見つかっており、油の貯蔵や酒造り・藍染めといった何らかの生産が行われていたとされています。酒の醸造した遺構という確証はないのですが、同寺の歴史をふりかえると,大型の甕が出土した埋甕遺構は寺の醸造所の一つだった,とみる考えは魅力的です。
ここまでお読みいただいた左党の方は,当時のお酒の味が気になっておられるかもしれません。僧坊酒の造り方については、「御酒之日記」に「天野酒」と「菩提泉」の造法が記されており、味はどちらも濃厚で酸のきいた酒であったと推測されています。「百済酒」もそのような酒だったのでしょうか。
最後に,安土城考古博物館では、12月20日(土)より3月15日(日)(メンテナンス休館1月26日(月)~2月6日(金))まで、第50回企画展「人ノ性、酒ヲ嗜ム 神を招き 人を結ぶ」を開催いたします。古代から中世の日本における酒の歴史をたどる展覧会です。ご来館をお待ちしております。

(大槻暢子)

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