新近江名所図会
新近江名所圖会 第300回 近江八幡市の身近な歴史体感スポット―八幡公園と桐原新橋の豊臣秀次像
近江八幡の歴史を考えるうえで、欠くことのできない人物の一人に豊臣秀次(1568~1595)がいます。豊臣秀次は、永禄11年(1568)に豊臣秀吉の姉・ともと木下弥助(のちの三好吉房)との間に生まれました。天下人、秀吉の継嗣とされ、関白となった秀次ですが、秀吉の実子である豊臣秀頼(1593~1615)の誕生以降、次第に秀吉から疎まれ、秀吉の家臣たちとも対立し、最終的には自害を命じられた人物としてよく知られています。
では、豊臣秀次と近江八幡には、いかなる関係があるのでしょうか。
これについてはご存じの方も多いかと思いますが、実は、秀次が城主をつとめた城が近江八幡市街地のすぐ北側、八幡山(日牟礼山)の山頂にかつて存在した八幡山城なのです。八幡山城は秀次が天正14年(1586)に築いた城郭で、秀次は天正18年(1590)に小田原の役の功によって清須に移ったため、城主としての就任期間は、5年に過ぎませんが、それでも城と城下町の造営に果たした役割は大きかったと考えられます。八幡山城の秀次館跡での発掘調査では、居館の存在を示す建物の礎石列や多くの金箔瓦などが見つかっています。
◆おすすめPoint
さて、前置きが長くなりましたが、この記事で紹介するのは近江八幡市内にある2体の豊臣秀次像です。1体は、秀次が城主をつとめた八幡山の南麓、近江八幡市立図書館の裏手に所在する八幡公園内にあります。この像は、昭和54年11月に豊臣秀次卿顕彰会により建てられたものです。束帯姿の銅像で、秀次像としてよく知られています。近江八幡市街を見渡せる場所に建てられており、秀次が市街地(城下町)を見つめています。
そして、もう1体が日野川に架かる桐原新橋にある秀次像です。これが「豊臣秀次公 水争い裁きの像」です。天正14年(1586)、桐原郷と迩保郷の間に日野川の水脈をめぐる争いが起きた際に、迩保郷江頭、十王両村の名主がその裁きを秀次に直訴しました。秀次は、家老田中吉政を従え、ただちに現地を視察し、3日後には明快な裁定を下し、双方を納得させ、流血の騒動にまで発展していた騒動を鎮めました。
本像は、こうした秀次の事績を顕彰する目的で、新田園都市構想と農道整備促進協議会により建てられたものです。
どちらかといえば、武勲が評価されがちで、勇猛な甲冑姿の武将像が多いなかにあって、それとは対照的なこの2体の銅像からは、秀次が優れた政治家であったことがうかがえます。
◆周辺のおすすめ情報
2体の秀次像を見学の際には、八幡山の頂上にもぜひ足を運んでみてください(参照:新近江名所圖会第53回秀次の夢の跡-八幡山城跡)。山頂へは八幡山の南麓に鎮座する日牟礼八幡宮近くからロープウェーを利用すると便利です。現在、八幡山山頂の八幡山城本丸跡には村雲御所瑞龍寺が建っています。秀次の気分になって、かつての城下町を眺めてみてはいかがでしょうか。
◆アクセス
●八幡公園
【公共交通】JR琵琶湖線 「近江八幡駅」 下車 バス 10分
公園前下車徒歩5分
【自家用車】名神高速道路八日市ICまたは竜王ICから15分
●桐原新橋
【公共交通】JR琵琶湖線「篠原駅」下車 徒歩約13分
【自家用車】県道326号若宮交差点から南西へ約1㎞
(宮村 誠二)