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新近江名所図会

新近江名所圖會 第267回 木地師の聖地-東近江市蛭谷・君ケ畑

東近江市

《蛭谷と君ケ畑》9
名神八日市インターから東へ愛知川上流に向けて約20㎞、奥永源寺小椋谷のなかでも最奥部に位置する蛭谷・君ケ畑は山あいの小集落です。まさに隠れ里の風情を漂わせた秘境めいたところですが、ここは全国の木地師(木地屋や轆轤師ともいう。ロクロを使って挽物の椀や皿、盆などをつくる職人)が信奉する場所です。随筆家の白洲正子(しらすまさこ)や民俗学者の折口信夫(おりぐちしのぶ)もこの地を訪れています。

大皇器地祖神社DSCN1982
大皇器地祖神社
伝惟高親王墓(君ケ畑)DSCN1985
伝惟高親王墓(君ケ畑)

《惟喬親王伝説》
木地師など挽物工業関係者の間には、木地師の祖とされる惟喬親王(これたかしんのう)の伝説が伝わります。「文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(844~897)は皇位につくことができず、小椋谷に移り住み、読経中に経軸からロクロを思いつき、その技術を当地の住民に教えた。これが木地師の発祥である。木地師は原料の樹木を求めて全国に散らばっていった。すなわち、木地師の祖先はすべて小椋谷の蛭谷と君ケ畑の出身である」というものです。
君ケ畑や蛭谷など各地に惟喬親王の御墓が伝えられており、筒井峠には、木地師業の有志の人々により親王千百年遠忌を記念して建立された惟喬親王の石像があります。
《木地師支配制度》
江戸時代には「氏子狩り」という制度により、全国的な木地師統括がおこなわれました。木地師の多くは原材を求めて家族とともに山から山へと移り住んでいました。木地師の支配所は、全国に散在する木地師の所在を細かく記した氏子狩(駆)帳をもとに、各地の木地師を訪ねて氏子料を集金するとともに、人別改め(江戸時代の戸籍調査)をおこない、鑑札(木地師活動の許可証)や往来手形(関所通行証)を与えて木地師としての身分を保証したのです。
元禄7年(1694)~明治26年(1893)の氏子狩帳(滋賀県指定有形民俗文化財)には、北は羽前(山形県の大部分)・岩代(福島県西半部)・下野・武蔵・相模・信濃・越前から、南は伯耆・石見・安芸・阿波・伊予・土佐・日向に至るまで、戸主のみで約1万人の氏子が記載されています。また、明治5年(1872)には1563戸が君ケ畑を本籍地として戸籍の届け出をおこなっています。

金龍寺扁額DSCN2056
金龍寺扁額
帰雲庵DSCN2027
帰雲庵

《木地師支配所》
このような木地師支配をおこなう本拠であったのが、蛭谷では筒井八幡宮(現筒井神社)と帰雲庵、君ケ畑では大皇(おおきみ)大明神(現大皇器地祖〈おおきみきぢそ〉神社)と金龍寺で、それぞれ筒井公文所(くもんしょ)、高松御所と呼ばれました。筒井八幡宮は親王が八幡神を勧請したことに始まるとされ、金龍寺は親王の御殿を寺に改めたと伝わります。筒井神社や帰雲庵、大皇器地祖神社、金龍寺には皇室の紋である16弁菊花紋が用いられています。

《支配所の終焉》
江戸時代には幕府から正当性を認められていた木地師支配でしたが、明治維新を迎えると、戸籍法の公布により木地師の戸籍上の帰属が問題になったり、山林の所有権が明確化されたことにより木地業の稼業許可を得るのが難しくなったりと、その存続が困難になりました。また、支配所が木地師に与えていた特権のお墨付きであった綸旨(りんじ:天皇の意を受けて発給する文書)や免許状の権威や効力が政府から否定されたのも相まって、明治時代中頃に支配所は終焉を迎えることになりました。
しかしながら、惟喬親王を祀る蛭谷・君ケ畑の両社寺には現在も全国から木地業関係者やその子孫の参詣が後をたちません。当地で活動されている木地作家もお二人おられます。これらの人々の間で惟喬親王信仰は生き続けており、蛭谷・君ケ畑は祖先の地であり聖地なのです。

木地師資料館DSCN2041
木地師資料館

【周辺のおすすめ情報】

[木地師資料館]
蛭谷の筒井神社境内にあります。木地道具や木地師関係文書、全国から寄進された木地作品などが見学できます。午前9時~午後4時 要予約4月1日~11月30日(12月1日~3月31日:冬季休館)予約先:050-5802-3313

[道の駅 奥永源寺渓流の里]
国道421号沿いにあります。旧政所(まんどころ)中学校の校舎を再利用した施設で、市役所の出張所や診療所など地域住民の生活を支える拠点ともなっています。イワナやヤマメなどの渓流魚を鑑賞できる小さな水族館や、木地師発祥の地を解説するパネル展示、地元の職人さんによる木地製品の展示などもあります。定休日:火曜日・年末年始

【アクセス】
名神八日市インターから東へ約20㎞、車で30分

平井美典

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