新近江名所図会
新近江名所圖絵第207回 大津蔵屋敷の面影を訪ねて(その2)
前回に引き続き、江戸時代の港湾都市大津を訪ねる旅を続けましょう。
京阪浜大津駅の南側を通る道を線路に沿って東に進むと、すぐにNTT西日本滋賀支店のビルが見えてきます。この支店の敷地がかつての彦根藩大津蔵屋敷跡です(写真1)。当時は、歩いてきた道あたりまで琵琶湖でしたので、屋敷北側に設けられた裏門から直接、湖水に出ることができました。また、この場所は石田三成の大津屋敷であったとされ、関ヶ原の戦いの褒美として、井伊直政が佐和山城とともに徳川家康から与えられました。湖水に突き出すように造られた彦根藩蔵屋敷は幕府の御蔵に次ぐ広さがあり、9万俵(約5,400トン)もの米俵を収納できたと伝えられます。屋敷内には、役宅や米蔵のほかに、佐和山多屋と呼ばれる彦根藩の商人達の借店も建ち並んでいました。佐和山多屋は大津での荷積みをめぐって、大津港の物流に独占的な利権をもっていた「大津百艘船」とたびたび対立していたことが知られています。NTTの南側にある彦田稲荷神社は、彦根藩蔵屋敷にあった鎮守社です(写真2)。境内の石鳥居や灯籠・手水鉢は明治31年の神社の移転に伴い、屋敷内から移されました。
NTTの敷地に沿って南に進むと、正面に京都信用金庫大津支店があります。この銀行が建つ南北に長い区画は「大橋堀」と呼ばれる港跡(船入り)でした。銀行前の浜町交差点付近を東側に曲がると浜町通りです。かつてこの交差点には堀を渡る浜町通りの木橋が架かっていました。橋を渡ると、浜町通りには平蔵町まで(大津市中央二丁目~四丁目にかけて)通りに北面して数多くの蔵屋敷が軒を連ねていました。これらの蔵屋敷は、いずれも間口が狭く、奥行きが長い「うなぎの寝床」のような敷地に建てられていました。たとえば、大橋堀跡からほど近い滋賀銀行本店にあった淀藩稲葉家大津蔵屋敷の場合、間口が10間ほど(約18m)に対して、奥行きが53間(約96m)もありました(写真3)。この屋敷では、浜町通りに面して建つ長屋門を入ると、中庭を囲むように役人や使用人達の役宅が配置され、その奥には15棟もの米蔵が2列に整然と建ち並んでいました。敷地の北側には琵琶湖へ通じる裏門があり、湖水を運ばれた米俵を直接蔵に運び込むことができました。
浜町通りを東に進むと大津市立中央小学校があります。校庭の「明治天皇聖蹟碑」のあたりが奈良の郡山藩柳沢家の蔵屋敷跡です(写真4)。
さらに進むと、ハローワーク大津があります。ここは、寛永十一年(1635年)に老中酒井忠勝が将軍徳川家光から拝領した小浜藩大津蔵屋敷跡です(写真5)。小浜藩は、同じ北陸地方の大名でありながら、いち早く米の輸送先を大坂へ変更した加賀藩と異なり、最後まで大津を中心とした年貢米の販売を行いました。また、この西隣りの現在更地となっている場所(旧大津税務署)は唐津藩土井家の蔵屋敷でした。蔵屋敷設置後、土井家はすぐに転封により近江国の所領を失いましたが、幕末までこの屋敷を維持し続けました。京都所司代職に任ぜられることが多かった土井家にとって、この屋敷は京都で政務を執る殿様を支える家臣達の官舎として使われたのです。
◆アクセス
京阪石坂線浜大津駅下車、徒歩20分。小浜藩蔵屋敷跡・唐津藩蔵屋敷跡には京阪石坂線島ノ関駅下車、徒歩3分。
◆周辺のおすすめPoint
浜町通りの1本南側の通りにある藤屋内匠は、寛文元年(1661年)創業の老舗和菓子屋さんです。江戸時代には大津代官所や小浜藩蔵屋敷、京都所司代へもお菓子を納めていました(写真6)。店先には当時から現代までの落雁などの菓子木型が飾られています。近江八景や大津絵をモチーフにした落雁や季節の草花の生菓子などを味わいながら大津の昔に想いを馳せてはいかがでしょうか。
(北原治)