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本丸跡からの眺め(周囲が一目で見渡せます)

新近江名所図会

新近江名所圖会 第159回 地域を睥睨する統一政権の城-水口岡山城跡-

甲賀市
(甲賀市水口町水口小字小城)

城郭に多少の興味のある人なら、甲賀の城と聞いて連想するのは、「方形居館」だと思います。方形居館とは、居館の周囲を土塁と堀で囲った50m四方ほどの小規模な城砦のことで、郡内で200基以上が確認されています。甲賀では中世、この城主である地侍たちが「甲賀郡中惣」とよばれる自治連合体を作って地域を支配していて、郡や広い地域を束ねる強力な領主は、織田信長の時代になっても出現しませんでした。
ところがそんな甲賀に、全く違うタイプの城郭が現われます。それが水口岡山城です。
信長が本能寺の変で討ち死にした後、賤ヶ岳の戦い、そして小牧長久手の戦いで、信長の息子たちや織田家の宿老たちを退けて天下統一事業を進めた羽柴(後の豊臣)秀吉は、天正13年(1585)7月に関白に就任します。この時秀吉は、子飼いの家臣・中村一氏に近江・伊賀国内に6万石を与え、現在の甲賀市水口町水口にある比高差約100mの古城山頂に、新たな城を築かせました。実はその直前、信長そして秀吉に仕えてきた甲賀衆(甲賀の地侍衆)は、紀州雑賀(和歌山県)の太田城水攻めの堤防工事で不手際をしたことを理由に、改易されました。築城を任された一氏には、統一政権による甲賀郡の新たな支配の確立や、甲賀のみならず近江内陸部を押さえること、さらに東海道を押さえて東国支配の足がかりを築くなど、多くの大切な役割が担わされたのです。

本丸跡からの眺め(周囲が一目で見渡せます)
本丸跡からの眺め(周囲が一目で見渡せます)

前述の方形居館は、小規模な上に石垣を用いない土作りの城で、低い丘陵地を選んで築かれていました。水口岡山城はそれとは異なり、周囲を一望できる高い独立丘陵の頂上に、東西約500m・南北約200mという規模で築かれています。そのうえ、中心の本丸は天守を備えた総石垣造りと考えられていて、東に連なる二ノ丸・三ノ丸との間は大きな堀切で区切られ、斜面には竪堀が設けられるなど、織豊政権による城の特徴を兼ね備えています。その目立つ姿は、新たな支配を甲賀郡に敷こうとする一氏と、その背後にいる秀吉の権威を周囲に知らしめるモニュメントでもあったのでしょう。

発掘調査でみつかった「破城」の痕跡 奥に大きめの石5つが横に並んでいるところが石垣のライン
発掘調査でみつかった「破城」の痕跡 奥に大きめの石5つが横に並んでいるところが石垣のライン

水口岡山城は、一氏の後は天正18年に増田長盛、文禄4年(1595)に長束正家と、豊臣家五奉行が次々と城主を務めます。しかし、正家は関ヶ原の戦いで西軍についたため、その後廃城となりました。その際、城を再利用できないよう破壊する「破城」の処理を受けたと考えられていましたが、平成24年度の発掘調査で、実際に石垣の初段だけを残して土に埋もれた状況や、その前面に多くの崩落した石(石垣として積まれていたと考えられる)が散乱している状況が確認されたことから、実際に「破城」を受けて石垣が壊されたことが明らかになりました。これは、滋賀県内で初めてで、全国でも宇陀松山城跡(奈良県大宇陀市)や赤城城跡(三重県熊野市)など数例しかない珍しい発掘調査事例です。
今後、水口岡山城跡は、実態解明の調査が甲賀市によって進められていますが、廃城後にほとんど手を加えられていない城であるため、今後どのような発見があるか、楽しみなところです。

本丸跡と伝天守台跡
本丸跡と伝天守台跡
本丸を支える高石垣
本丸を支える高石垣

おすすめPoint

大手道の虎口(右手奥の土の下から破城の痕跡が発掘されました)
大手道の虎口(右手奥の土の下から破城の痕跡が発掘されました)

山頂の城郭部分には、石垣や枡形虎口・食い違い虎口・堀切・竪堀・櫓台などの城郭の遺構が散在していて、城跡めぐりにはもってこいです。南面の大手道から登ると、最初に枡形虎口が現れます。虎口の上の郭からそのまま登れば本丸に到着します。東西に細長い平坦地になっている本丸の東西端にそれぞれ櫓台があり、そのいずれにも天守台だったという説がありますが、実際にどちらに天守閣があったのかはまだ分かっていません。大手道虎口の上の郭から本丸に登らずに右手に行くと食い違い虎口があり、左手に大きな空堀を見ながら二ノ丸に入ります。そのまま進むと、堀切を回り込んで三ノ丸に至ります。これは城跡の南斜面側の道ですが、石垣が多く残っているのは本丸の北側斜面の方です。特に本丸の西端付近、本丸の土台になる部分に高石垣があります。残念ながら、発掘調査で発見された「破城」の痕跡は、埋め戻されていて見ることはできませんが、この高石垣周辺の崩れた石垣から、破壊された城の雰囲気を十分に感じることができます。
なお、城跡を見学する際には、ダウンロードできるブックレット(『埋蔵文化財活用ブックレット10 水口岡山城跡』滋賀県教育委員会事務局文化財保護課刊行)を利用すると便利です。

周辺のおすすめ情報

水口岡山城から西に1kmほど行った平地に、水口城資料館となっている近世の水口城跡があります。ここは、水口岡山城廃城後、三代将軍徳川家光が上洛の宿館として築城した城で、その後、天和2年(1682)に加藤明友が水口藩2万石の藩主として入城しました。藩主は、鳥居氏を経て再び加藤氏となり、幕末まで続きます。また、水口岡山城のある古城山の南麓には、東海道に沿って近世水口宿の町並みが広がっています。

アクセス

【公共交通】近江鉄道水口駅から南東へ徒歩10分
【自家用車】新名神高速道路甲南ICから北へ約20分

(高木叙子)

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