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織田略系図

新近江名所図会

新近江名所圖会 第182回 桜ばかりを描いた信長の子孫・瑟瑟の墓を守る寺(西蓮寺)

東近江市
織田略系図
織田略系図

織田信長の血筋は、本能寺の変や関ヶ原の戦いの後も続いており、息子たちの子孫は、江戸時代には大名や旗本となっています。右に示した略系図をご参照下さい。
東近江市の、市役所から八日市インターチェンジに及ぶ一帯は、織田一族が江戸時代に領地としていた場所の一つです。本連載の第106回で、信長の曽孫である織田淡水(一之)の墓が紹介されましたが、この地域を支配していたのは、淡水が属した信長の七男信高の末裔と、九男信貞の末裔でした。信貞の子孫は、神崎郡内に1000石の所領を与えられており(主に川合寺村・境村・南村に所在)、旗本の中でも特に格式の高い、「高家(こうけ)」とされる家柄でした(信高の末裔も同じ)。「赤穂浪士」の悪役吉良上野介(きらこうづけのすけ)が同じく高家だといえば、わかりやすいでしょうか。
信貞の曽孫の長経は、嫡男でしたが病気のため弟に家督を譲り、津田姓を名乗って父の所領であった川合寺村に移り住みました。子孫は現地の代官などをしながらそこに根付いていったようです。長経の孫貞秀の娘として、安永7年(1779)に生まれたのが、後に女流画家「瑟瑟(しつしつ)」となる政江でした。男兄弟がいなかったので、津田の家は政江が婿養子を取って継ぎますが、政江自身は京都の三熊露香(みくま ろこう)に師事し、桜の花を得意としその絵ばかりを描く画家として、名を高めていったのです。

瑟瑟と信章の墓
瑟瑟と信章の墓

華やかで力強い桜木を存分に描いた瑟瑟は、天保3年(1832)に54歳で世を去りました。夫の石居信章(彦根藩士の三男)は、瑟瑟より約20年早く他界していましたが、二人一緒のお墓が、川合寺村の西蓮寺に残っています。西蓮寺では、瑟瑟とその画業を偲び、2003年より毎年、4月の第1土・日曜日に、瑟瑟の作品を本堂に飾り、関連の講演や地元作家の工芸作品などの展示を行う「桜画展」を開催しています。外では桜が舞い散り、本堂では美しい桜の作品を堪能できる、とても贅沢な催しです。

西蓮寺
西蓮寺

ただし、瑟瑟の描いた「桜」は、幕末頃に品種改良されて日本全国に広まった「ソメイヨシノ」ではありませんから、その点はご留意願います。

周辺のおすすめ情報

「元亀争乱(げんきそうらん)」といって、信長が浅井・朝倉氏や一向一揆を敵に回して苦戦を強いられていた頃(1570~74年)、八日市から愛東にかけての一帯は、反信長勢力がゲリラ活動や一揆を起こす不穏な地域の一つでした。その拠点となっていたのが、同市愛東町鯰江(なまずえ)にあった鯰江城(西蓮寺の約3㎞南東)です。城跡は、現在は集落となってしまっていて、在りし日の姿を忍ぶことはできませんが、発掘調査で見つかった石組暗渠排水の遺構が鯰江農業集落排水処理施設内で保存されており、見学することができます。
また、信長は鯰江城を攻略するため四ヶ所に付け城を作らせたことが古文書からわかりますが、その一つと考えられているのが、同市愛東町妹(いもと)の井元城です。鯰江城の1㎞東南にあった井元城の遺構は、春日神社の境内に今も残っています。
江戸時代に、なぜこのあたりが織田家の所領として続いたのかはよくわかりませんが、このような要注意地域に楔を打ち込むため、織田家が直接支配しようとした名残なのかも知れません。
鯰江城・井元城参考:「淡海の城」友の会会報「近江の城」
http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/namazuejo.html
http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/imotojo.htm

西蓮寺への行き方

近江鉄道八日市駅から近江鉄道バス市原線(東近江記念医療センター経由永源寺支所行き)に乗車し、「川合寺」バス停下車後、北へ約400メートル

(高木叙子)

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