記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖会 第293回 考古学史に名高い近江の縄文時代遺跡 ―安土遺跡―

近江八幡市

近江八幡市安土町下豊浦
今回の新近江名所圖会は、知る人ぞ知る、縄文時代の貴重な遺跡を紹介したいと思います。場所は近江八幡市安土町下豊浦、安土山の麓にあたります。

1949年(昭和24年)の発掘調査の風景(奥に福之島弁財天 奈良文化財研究所提供)
1949年(昭和24年)の発掘調査の風景(奥に福之島弁財天 奈良文化財研究所提供)

有名な安土城跡のある安土山は、1940年代までは、弁天内湖と伊庭内湖の中に浮かぶ小島のようでした。その後、周辺の大中の湖とともに干拓され、現在では周辺に耕地が広がる景観となっています。
この干拓の際に、とある遺跡がみつかりました。それが安土遺跡です。当時の近畿地方では珍しい、縄文時代早期から前期の土器や石器が出土し、研究者の間では重要な遺跡と認識されていました。
この安土遺跡を最初に組織的に調査したのが、「縄文の父」呼ばれる山内清男博士でした。この調査は、前年の1948年(昭和23年)に結成された考古学の学会組織である、日本考古学協会に設置された「縄文式文化編年研究特別委員会」のもと、東京大学人類学教室と京都大学考古学教室が中心となって実施されました。
山内博士自身はこの安土遺跡の成果を詳細に公表することはありませんでした。しかし、1950年(昭和25年)の日本人類学会例会で、「近江安土村琵琶湖遺跡」というタイトルで、この遺跡を「安土遺跡」として紹介しています。その発表では、当時関東地方の縄文時代前期の初めの土器である「花積下層式」と同じ時期の土器が安土遺跡から出土し、それを「安土N上層」と紹介したようです。

安土遺跡N地点出土土器(奈良文化財研究所所蔵
安土遺跡N地点出土土器(奈良文化財研究所所蔵)

その後は、縄文文化と中国大陸の文化を比較するために玦状耳飾(けつじょうみみかざり)と呼ばれる石製の装飾品の紹介をしたのみで、これ以上安土遺跡に関する発表はありませんでした。
この調査に参加していた坪井清足先生が当時の調査の様子を『図解考古学辞典』や『縄文の湖 琵琶湖粟津貝塚をめぐって』に記述を残しています。また、約40年後の1999年(平成11年)、ほ場整備にともなう発掘調査が実施されました。さらに2005年(平成17年)に奈良文化財研究所が、山内博士が調査した資料を整理し報告書を刊行しています。
これらによると、A・B・I・J・N・M地点という調査区が設定され、A・B地点は安土山の西麓、現在の竜ケ崎A遺跡、I地点は福之島弁財天の西側、N地点はI地点からさらに西側、西の湖付近で、I・N地点は現在の弁天島遺跡と考えられます。また、早期後葉のI・J地点、前期前葉から後葉のA・B地点と、場所によって出土する土器が違うことが分かりました。

おすすめpoint

安土遺跡出土玦状耳飾(奈良文化財研究所所蔵・写真)
安土遺跡出土玦状耳飾(奈良文化財研究所所蔵)

1950年(昭和25年)に坪井清足先生が中心となって平安学園考古学クラブが大津市石山貝塚を調査します。安土遺跡では豊富に土器が出土したものの、時間的にどのように変化していくのかを検証できませんでした。考古学用語でいう「層位関係」が判然としなかったのです。そのため、これを補完するために、安土遺跡と同時期の石山貝塚が選ばれ、発掘調査が実施されました。この調査の結果、安土遺跡の各地点で出土する土器の違いが、石山貝塚では時期の違いであるということが証明されたのです。つまり山内清男博士の安土遺跡発掘調査の成果を、これに参加していた坪井清足先生が、石山貝塚の発掘調査で裏付けをとったことになります。このことは近畿地方だけでなく、東日本を含めた大きな成果でした。
このように、安土遺跡は近畿地方の縄文土器研究を語るうえで非常に重要な遺跡の一つなのです。

◆アクセス 滋賀県立安土城考古博物館
公共交通機関 JR琵琶湖線 「安土駅」 下車 徒歩 25分
自家用車 名神竜王ICから約30分(駐車場あり)

(福西貴彦)

Page Top