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新近江名所図会

新近江名所圖會 第210回-近江真綿(その1)

米原市

埋文センターに入って間もない頃、梱包材用の綿を製綿所に注文する際に、化繊綿ではなく木綿の綿を、無知な私は「まわた」と表現したところ、「それ(真綿)は絹のわたのことだ」と製綿所のご主人に教えていただきました。昨今は、木綿わたの布団を使う人が減り、わたの打ち直しや入れ替えなどをすることもなくなりました。木綿わたを製綿できる業者さんも限られるようで、3年前に以前(15年前)と同様の木綿わたを発注しようとしたら、それを製綿できるのは県内で数軒しかないと言われ、驚きました。今回は、15年前に教えていただいた真綿を今も作っている、県内でほぼ唯一という米原市(旧近江町)の工房にお邪魔し、真綿ひき・繭むきの作業を見学・体験させてもらいました。
今回は、少し分量が多くなったので、2回に分けてお話ししていきます。まずは、日本そして近江における真綿作りの歴史をたどっておきましょう。
さて、真綿の製造は、古くから養蚕地方で行われたことは想像されますが、養蚕起源とともに開始されたのか、あるいは後に始まったのか、定かではありません。
日本における最古の真綿に関する記録としては3世紀の『魏志倭人伝』に「禾稲(かとう)、紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑緝積(てんそうしゅうせき)し、細紵(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出だす」とあります。この「緜」が真綿のことを指すと考えられています。
また『養蚕秘録』(1802)によると、「雄略天皇の御宇に駿河国よりはじめて真綿を献ず」とあって、雄略天皇(419~479)の時代にすでに真綿が作られていたことが分かります。
近江に伝わったのは江戸時代中期頃とされています。坂田郡(近江町)の住民が東北地方より木綿の漂白技術を習得して帰った、また、信濃地方から真綿作りを習って是を皆に広めた、という伝承があります。
享保9年(1724)の真綿生産の調査では、越前国・上野国・加賀国・岩代国・近江国が産地として名を連ねています。江戸時代の『和漢三才図絵』でも、近江国土産の中に真綿がみえ、江戸時代には近江国でかなりの量の真綿が生産されていたようです。特に旧近江町の多和田・岩脇・能登瀬・飯・顔戸・高溝などで生産されていて、宝暦年間の記録にも出てきます。
明治・大正期は生糸・真綿の輸出が国策となりました。また、戦時中は軍需用に旺盛な需要があったため、昭和11年には滋賀県が全国生産量一位(シェア30%)を占めました。その最盛期は昭和30年頃で、全国の真綿生産量の60%を多和田村で生産していたといいます。しかし、その後、安価な輸入真綿の進出により大打撃を受け、また合成繊維の普及に伴って需要が減少しました。近年では真綿から糸を紡いで、紡ぎ糸に使用されることが多くなってきました。真綿ふとんの需要もないわけではないのですが、原料繭価格高騰によって真綿価格が上昇し、高嶺の花となった真綿ふとんの需要が減り、その生産も激減するという悪循環に陥ってしまいました。今では、ここ「北川キルト縫工」と、その他に数軒が真綿作りをするのみになってしまいました。
真綿作りはすべての工程が手作業です。人手がかかる一方、技術伝承が難しく、技術を継承する人材も不足気味なので、コストダウンはきわめて困難です。最近は羽毛・化繊といった競合する新素材が台頭し、状況はますます厳しくなっています。しかし、真綿にしかない、軽いのに何ともいえず肌にしっくりなじむ独特の風合い、暑すぎることのない暖かさ、優れた吸湿放出性による快適さは他に類を見ません。その素晴らしい特性をもう少しうまくPRできたら、少しはニーズが増えるのではないかと思います。
今回はここまでです。次回は、真綿作り体験を詳しくお話しすることにしましょう。ご期待ください。
(小竹志織)

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