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新近江名所図会

新近江名所圖會第226回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」Ⅴー宇佐山城

大津市その他
大津市下阪本聖衆来迎寺にある森可也の墓
大津市・聖衆来迎寺の森可也の墓

【前回(225回)の続き、信長の逃避行の5回目です。なんとか朽木谷を抜け、花折峠を越え、迫り来る長政への迎撃を誓う信長。長きにわたり近江の地が戦場となる前夜の話。】

元亀元年(1570)5月、織田信長は、思いもかけない浅井長政の裏切りに合い、命からがら京へ京へ逃げ帰りました。しかし、信長の本拠地は岐阜城です。京から岐阜城に帰り、長政に対して報復しなければなりません。当時、京と岐阜を結ぶ主要な道は中山道ですが、この道は長政の領国を通っているので使えません。となれば、鈴鹿を超えて伊賀、伊勢に抜けて岐阜に帰るしかありません。しかし、長政の勢力はどんどん南下し、この道をも塞ごうとしています。当然、湖西方面からも京に迫って来るでしょう。

この続く危機的状況を切り抜けるために造られた城が、大津市の宇佐山城です。「志賀の城・宇佐山拵へ、森三左衛門をかせられ」としか『信長公記』には書かれていませんが、短いだけにその時の緊迫した状況が伝わってきます。森三左右衛門とは、あの森蘭丸のお父さんです。そして、5月9日、信長は湖西の守りを三左衛門に託して京を出て、岐阜に向かいます。

宇佐山城遠望
宇佐山城遠望
宇佐山城の唐突に積まれた石垣
宇佐山城の唐突に積まれた石垣

宇佐山城

宇佐山城のある宇佐山は、近江神宮の背後に聳える頂部の平らな独特の山容を持つ山です。中腹には宇佐八幡宮が鎮座しており、山の名称はこれに由来します。また、近年の発掘調査では、古代の雨乞いに使われる土馬が出土するなど、水の聖地として意識された山でもあったようです。元々は山頂に八幡宮が鎮座していましたが、築城の際に中腹に移転させられたと考えられます。そして城をを造るため山頂を削平した結果、独特の山容が生まれたのでしょう。

さて、宇佐山城と城主森三左衛門ですが、姉川の合戦を経た4ヶ月後、浅井長政、朝倉義景の猛攻を受けます。

宇佐山城の中腹にある金殿水
宇佐山城の中腹にある金殿水

「辛末九月十六日、越前の朝倉・浅井備前、三万ばかり坂本口へ相働くなり。森三左衛門、宇佐山の坂を下々り懸け向かひ、坂本の町はずれにて取り合ひ、纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得。翌日、九月十九日浅井・朝倉両手に備へ、又取り懸け候。町を破らせ候ては無念と存知られ、相拘へられ候のところ、大軍両手よりとかかり来たり。手前に於いて粉骨を尽さると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。」

この戦いは、翌年の比叡山焼き討ち、さらに元亀4年(1573)の小谷城攻略まで続く志賀陣の幕開けとなりました。近江を中心に繰り広げられたこの戦いは、信長の天下布武へ、そして、その象徴である安土城築城へと続く、長く苦しい戦いとなります。詳しくは迷著「信長が見た近江-信長公記を歩く-」をお読みください。

(大沼芳幸)

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