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新近江名所図会

新名所圖會第228回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」Ⅵ

東近江市
千草越えと八風街道の分かれ道
千草越えと八風街道の分かれ道
信長駒繋ぎ松
信長駒繋ぎ松
看板
千草越えの道中にある看板
右が隠れ岩。対岸を通る信長を撃った
渋川の谷。右端の黒っぽい大きな岩が隠れ岩
善住坊隠れ岩
善住坊隠れ岩。ここに隠れて信長を狙撃した。

【前回(226回)の続き、信長の逃避行の6回目です。忠臣・森三左衛門の捨て身の戦いもあって、なんとか本拠地・岐阜城への帰路を確保した信長。浅井長政の勢力下にある中山道を避け、鈴鹿の山中を通ることに。しかし鈴鹿の山中奥深くにも追手が潜んでいたのであった…】

元亀元年(1570)、越前侵攻戦に失敗し、京まで逃げ帰ったきた信長でしたが、京から岐阜に帰る道にも、浅井長政の勢力が迫って来ました。守山、栗東で蜂起した一揆勢を何とか駆逐すると、信長は鈴鹿に進路をとります。しかし、道は東近江市池田町で二つに分かれます。一つは八風街道、もう一つは千草越えです。
『信長公記』にはこの時の状況を「五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城(旧愛東町)へ人数を入れ、市原の郷(旧八日市)一揆を催し、通路を止むべき行仕り候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔、布施藤九郞、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下りなされ候。」と記しています。北から迫ってくる長政の軍勢から逃れるかのように、進路を右に取り、千草越に入ったのです。

信長の駒繋ぎ松

千草越えは、道程は長いのですが、比較的高低差が少なく、近江と伊勢を結ぶ間道としてよく使われた道です。やがて道は近江最後の集落の甲津畑に至ります。甲津畑の速水家の前庭には、信長が暫しの休息を取るため、乗っていた馬を繋いだという伝承のある、松の巨木が立っています。樹齢は優に四〇〇年を超えると言われていますから、この松が若かった頃、本当に信長が馬を繋いだかもしれません。少なくとも、ここを通過する信長の姿をこの松は見たに違いありません。
甲津畑を過ぎると道は渋川の谷に入り、杉峠を目指します。信長がこの谷に入ったとき事件が起きます。『信長公記』には、「左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく、十二、三間隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。」と、観音寺城を信長に追われた六角承禎の命を受けた杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を狙撃したのです。

善住坊の隠れ岩

千草越えは、愛知川の支流の渋川の谷に沿って登りますが、車止めから1時間ほど登ったところに、善住坊の隠れ岩を示す道標があります。これに従って谷に下ると左岸に頭の平らな巨巌があります。これが隠れ岩です。信長の時代、千草越えは渋川の右岸を通っていました。善住坊はこの岩の上に身を伏せて、対岸を行く信長を撃ったのです。しかし、「されども、天道昭覽にて、御身に少しづつ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、」と、信長にとっては運良く、銃弾は外れます。川の対岸から狙撃されたことと、信長は一刻も早く近江を離れたかったことから、おそらく善住坊に対する追撃は甘く、彼は遁走し、暫く高島に身を隠すことになります。
この危機を脱した信長は、「目出たく、五月二十一日濃州岐阜御帰陣。」そして6月、長政を撃つため岐阜を出陣し、舞台は姉川の合戦へと移ります。
さて、善住坊は、高島に潜伏しますが、天正元年(1573)「此の比、杉谷善住坊は鯰江香竹を憑み、高島に隠居候を、磯野丹波召し捕へ、九月十日、岐阜へ。菅谷九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として、千草山中にて鉄砲を以て打ち申し候子細を御尋ねなされ、おぼしめす儘に御成敗を遂げらる。たてうづみにさせ、頸を鋸にてひかせ日比の御憤りを散ぜられ、」と壮絶な結末を迎えることになります。
金ヶ崎の退口を始めとする信長のエピソードと、関連する近江の新名所は、名楽書「信長が見た近江-信長公記を歩く-」でお楽しみ下さい。

大沼芳幸

■信長の駒繋ぎ松

■善住坊の隠れ岩

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