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新近江名所図会

新近江名所圖繪第223回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」の道(3)-岩神館と旧秀燐寺庭園

高島市
写真1 旧秀隣寺庭園
写真1 旧秀隣寺庭園
写真2 旧秀隣寺庭園の雪景色
写真2 旧秀隣寺庭園の雪景色
写真3 興聖寺
写真3 興聖寺

【前回(219回)に引きつづき、越前攻めのさいに織田信長を襲った事件―浅井長政の裏切りにより、越前からの命からがら逃げ伸びた逃避行の3回目です。】

元亀元年(1570)4月、浅井長政の裏切りに合い、絶体絶命の危機に見舞われた織田信長。信長は京に逃げ帰る道として朽木街道を選択します。この時、浅井長政の勢力下にあったはずの朽木元綱は、長政を裏切って信長に味方し、信長が朽木谷を通過することを許します。この時、もし元綱が長政に義理立てしていたら、信長はこの段階で歴史の舞台から姿を消していたでしょう。この間の様子を『信長公記』は
「4月晦日、朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走を申し、京都に至って御人数打ち納められ・・」
と、簡潔に記しています。ちなみに、朽木信濃守とは元綱の事です。
さて元綱が信長を「馳走」したと書かれていますが、この場合の「馳走」には「飲食の接待」という意味以外に、「奔走する」・「世話をする」等の意味もあります。何れにしても、元綱が信長が朽木谷を通ることを認めたという行為は「頼むし通してくれへん?」に対して「かまへんで」と応え、「ほなおおきに」と言って信長は去っていった。などという軽いノリではなかったはずです。高度な政治的な駆け引きを伴った交渉が行われた結果、元綱は信長を通す決断を下したにちがいありません。恐らく、直後から浅井に侵攻されるリスクも覚悟した上での決断です。
この判断が功を奏したのか、その後、朽木家は信長に対して臣従し、幕末まで朽木に君臨し続けることができました。であれば、信長と元綱の間で何らかの服属のための儀礼が行われたはずです。その場所が朽木岩瀬にある岩神館だと私は考えています。
■岩神館・旧秀隣寺庭園
岩神館は朽木家の分家の館でしたが、足利義澄(よしずみ)・義晴(やしはる)・義輝(よしてる)の3人の将軍が身を寄せる館として朽木氏が整備された城です。館には、将軍を中心とした儀礼の装置としての庭園が残されています。これが武家庭園の傑作とされる旧秀燐寺庭園(きゅうしゅうりんじていえん)です(写真1・2)。このお庭は「都から逃れてきた将軍様の無聊を慰めるため造られた」とマイナスイメージで解説されることが多いのです。しかし、私は正反対の意味があったと考えています。領国を支配する武家は、配下との服属儀礼を行う為の舞台装置として積極的に庭園を造ったからです。武家の長である将軍は、どこに居ても将軍です。将軍の坐すところに儀礼のための装置―つまりお庭が必要だったはずです。だから、必要に迫られ―プラスの目的でこの庭を造ったのだと、積極的に考えるべきです。
将軍を迎えた格式の高い館に、これから朽木の命運を託す信長を迎える。朽木氏の思いを推し量れば、信長は岩神館に宿したと考えるのが相応しいでしょう(詳しくは変な旅本『信長が見た近江-信長公記を歩く-』サンライズ出版、を御笑読ください)。
■興聖寺釈迦如来座像
岩神館は、現在禅宗の興聖寺の境内となっています(写真3)。本堂の中には平安時代終わり頃の木造釈迦如来座像(重要文化財)が安置されています。普通、お寺のご本尊は厨子に入っておられたり、高い須弥壇の上におられて、間近には拝することができないのですが、このお寺のご本尊は参拝者が須弥壇に登り、ご本尊の目の高さでこれをを拝することが許されるという、大変にありがたい仏様です。境内の庭園・城跡ともどもに山里の佇む古き文化の香りをぜひ楽しんでください。
さて、今回はここまでといたします。次回は朽木谷に入った信長が次にみた風景についてご紹介することにしましょう。(大沼芳幸)

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