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調査員オススメの逸品 第186回 渡来人の持ち物?-小川原遺跡の徳利形平底壺-

甲良町

古墳時代後期を中心とする時期に、徳利形平底壺(とっくりがたひらぞこつぼ)と呼ばれる一風変わった形の須恵器がみられます。呼んで字のごとく、お酒を入れる徳利のような形をした底の平らな壺です。その形態的特徴から、ルーツは百済(くだら)の「平底短頸壺」にあるとされ、近畿地方はいうまでもなく九州や関東などからも出土しています。とりわけ渡来人と係わりの深い地域の古墳などに副葬品としておさめられていることが多く、被葬者(所有者)の人物像をうかがうことができる遺物としても注目されます。

小川原遺跡土坑墓
小川原遺跡の土坑墓
手前が徳利形平底壺、奥が須恵器甕 左側に轡と鉄鏃
徳利形平底壺
徳利形平底壺
須恵器甕
須恵器甕
鉄鏃
鉄鏃
鐙

ひとくちに徳利形平底壺といっても一個一個大きさも形状も少しずつ異なっています。スリムなもの、太めなもの、肩の張るもの、なで肩のものという具合です。しかし、形態以外の共通点もみいだせます。製作にあたって底から立ち上がる部分をヘラで削ったり、体部にはカキ目という調整がみられるのもその一つです。このように形態的類似品はみられるものの、同一の規格品でないことや、出土事例も限定されることから、大量生産品ではなく必要に応じて製作された、いわばオーダーメイドの特注品であったのではないでしょうか「こんな形で、こんな風に作ってね」なんて言って発注したのかもしれませんね。また、古墳などのからの出土がその大半を占めることからすると、徳利形平底壺とは、百済に係わりの深い人物を葬るさい、副葬するために特別に用意された土器だったのかもしれません。
さてその徳利形平底壺ですが、今から約20数年前、私が犬上郡甲良町の小川原遺跡を調査していた時に出土しました。平成28年現時点までに滋賀県内では全部で12点の出土が知られていますが、その内の1点です。ちなみにこの内の4点が甲良町から出土しています。そのほか大津市や高島市、東近江市、日野町でみつかっています。そこでプチ自慢ですが、東近江市の徳利形平底壺は蛭子田遺跡から出土していますが、実はこの時の調査担当者の一人が私だったのです。県内出土品の2/12に私がかかわっているのです。
話がそれたので戻します。今回紹介する徳利形平底壺は、土坑墓(どこうぼ)から出土しました。土坑墓とは、たんに地面を掘っただけの墓で、墓としてはもっとも簡単なものです。木棺の痕跡が残っていまいかと埋土の観察も行ったのですがまったくみられませんでした。単に坑(あな)を掘って埋葬しただけのものだったみたいです。こんな簡単なお墓のわりには、どうしてどうして「イイモノ」がでてきました。徳利形平底壺以外に須恵器の甕1点、鉄鏃5点、轡(くつわ)1点です。轡というのは馬具の一種で、馬の口にはませその両側に手綱(たづな)をつける鉄製の道具です。馬を制御するために用いるため、乗馬するのにあたりもっとも基本的な道具になります。金ピカ品こそ出ませんでしたが、その辺の古墳にも見劣りしないような品を副葬したお墓だったのです。
でもどうしてここまでの品を副葬できるような人なのに古墳ではなく簡単な土坑墓だったのでしょう。甲良町内のこれまでの発掘によって、渡来人に係わるような形態の石室を持つ古墳が多くみつかっています。同町内から出土した他の3点の徳利形平底壺はいずれも古墳からの出土になります。この土坑墓に葬られた人物も渡来人か関係の深い人であったことは想像に難くありません。古墳に葬られた人との違いはなんだったのでしょう。何かの格差があったのでしょうか。ちなみにこの土坑墓ですが、まったくの単独でみつかっており、調査地内には古墳はおろか同時代の遺構すらありませんでした。また、この調査地点から北西へ約1.2km離れた彦根市葛籠北遺跡で、同じ頃の古墳群が発掘されています。ここでは渡来人に係わるような遺物はみつかっていませんが、同じような土坑墓の1つから土器とともに轡や鉄鏃が出土しています。轡は古墳ではなく土坑墓に副葬されていたのです。このへんのところに小川原遺跡の土坑墓に葬られた人物像をうかがうヒントがあるのかもしれませんね。
この時の調査で悔やまれることが2つあります。写真をみると徳利形平底壺の口の部分が少し欠けているのがわかると思います。調査の時、表土を重機で剥いでいたときにやってしまいました。いい訳すると、表土のすぐ下が遺構面であったことや、徳利形平底壺の口の部分が土坑墓の埋土ぎりぎりにあったことで「カリッ」といってしまいました。もう1つは須恵器の甕です。これまた写真をみると、細い穴が空いていて周りも割れています。この土坑墓を掘るときに土が硬かったので、最初にバチ鍬という道具を使いました。その一投目、「カチン」という音とともに甕の体部の一部が割れて空洞であった中に落ちました。その後、写真撮影にあたってくっつけてみましたが、バチ鍬の当たった部分だけは元に戻りませんでした。調査から20年以上たった今でも忘れない痛恨の思い出です。

(内田 保之)

◆詳しくはこちらの文献で…

滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会(1995)『在士北遺跡2・尼子遺跡・小川原遺跡2』

滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2014)『蛭子田遺跡1』

彦根市教育委員会(1985)『葛籠北遺跡』
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