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新近江名所図会

新近江名所圖會 第238回 朴市秦造田来津の墓か-東近江市勝堂古墳群  

東近江市
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赤塚古墳と弁天塚古墳

勝堂古墳群は、愛知川右岸中流域の平野部に位置する勝堂の集落内に点在しています。江戸時代には48基が数えられていましたが、現在は赤塚、弁天塚、おから山、行者塚、山上塚の5基が残り、山上塚を除く4基が県指定史跡となっています。
赤塚古墳は、直径32m、残存高さ5.2mの円墳、埋葬施設は保小穴式石室、玄室の長さ3.8m、幅2.3m、羨道の長さ2.4m以上、幅1.5m以上の両袖式で、玄室の天井石は大型の一枚石が使われています。

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赤塚古墳

弁天塚古墳は、赤塚古墳の北側の隣接地点に位置し、直径20m、残存高さ4.3mの円墳で、墳丘は赤塚古墳より小規模ですが、幅11m程の周濠とその外縁に残存高さ0.7m、幅5m程の周堤帯があり、これを含めると径50mを超える規模になります。
おから山は直径40m級、行者塚は直径30m超、山上塚は直径20m前後の円墳で、埋葬施設は横穴式石室です。5基とも発掘調査が行われていないため詳細は不明ですが、赤塚古墳は石室の構成が石舞台古墳に類似するなどの点から7世紀前半、弁天塚古墳は周堤帯で墳丘規模を大きく見せる手法がとられているなどの点から大化の薄葬令(645年)以降に築造されたと推測されており、これらのことから推測される5基の構築順は、山上塚、行者塚、おから山、赤塚、弁天塚の順で、6世紀後半から7世紀中頃まで順次構築されたと考えられています。

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正眼寺の石棺

不明な点の多い山上塚を除く4基は何れも後期古墳としては傑出した規模をもち、かつ4~5世代に渡る地域の首長系譜と認識できるため、被葬者はこの地域の開発を主導した人物と考えられます。勝堂古墳群が築造された愛知郡は、渡来系氏族である依知秦氏(えちはたし)が開発を主導した地域として知られており、その墓域は総数約300基の大古墳群である金剛寺野古墳群と考えられています。一方、勝堂古墳群の被葬者は、日本史上有名な白村江の戦いで活躍したことが『日本書紀』に記載される朴市秦造田来津の一族の可能性が高いとの指摘があり、終末期古墳としては県内有数の規模をもつ弁天塚古墳の被葬者は朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)である可能性もあります。
近江の渡来系氏族のなかでは最も有名な依知(朴市)秦氏ですが、その実態は未だ不明な点が多い氏族です。勝堂古墳群から旧愛知郡の地を見渡すと、依知(朴市)秦氏の果たした役割が何と無く分かるような気になれます。あなたも是非足を運んで、古墳だけでなく、現地の雰囲気を体感してみてください。

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瑞正寺の石棺

◆おすすめPOINT
集落内の瑞正寺と正眼寺の境内には、赤塚古墳から出土したと伝わる兵庫県の加古川流域産の竜山石(凝灰岩)製組合せ式家形石棺の部材が置かれています。ただし、そうとは知らずいるととおり過ぎてしまいますが。両者ともに赤塚古墳の石室の年代観と矛盾しないため、もとは赤塚古墳に納められていたと考えられます。

◆周辺のおすすめ情報
勝堂古墳群とならぶ湖東地域の大古墳群上蚊野古墳群は、古墳公園として整備されており見学することができます(新近江名所圖會第73回)。また、道の駅として人気の高いマーガレットステーションも近くにあり、季節の野菜・果物が豊富に取り揃えてあり見るだけでも楽しめます。

◆アクセス
公共交通機関 JR近江八幡駅から近江鉄道愛知川駅下車、徒歩約60分
自家用車 名神高速道路八日市ICから約15分
(藤崎 髙志)

東近江市勝堂町

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