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調査員のオススメの逸品 第238回 夏休みの自由研究企画⑥ 山中で眠っていた牛乳瓶/椿谷遺跡の出土品

大津市

発掘調査といえば、はるか昔の時代をさぐる、という印象が強いかもしれません。しかし、今回は大正時代に操業したと考えられる石切場からみつかった牛乳瓶についてお話しします。

牛乳瓶がみつかった椿谷遺跡は、大津市の田上山山中にある採石場の跡です。牛乳瓶は、石の形をととのえて外へ運び出す準備をする作業場と考えられる平らな場所から見つかりました。牛乳瓶のほかに湯飲み茶碗やサイダー瓶とおもわれる破片もみつかっていることから、作業員の休息場みたいな場所だったとも考えられます。
みつかった遺物の大半は破片でしたが、2つの牛乳瓶は元のかたちをとどめていました。埋文センターに持ち帰って、瓶の中に詰まっていた土や苔をとりのぞき水で洗ってみると、瓶の表面に文字があることを発見しました(写真1)。その文字を読みやすくしたものが写真2になります。

写真2
写真2
写真1
写真1

牛乳瓶のひとつには「大阪驛 水了軒」、もうひとつには「石山三宅牧場」の文字が記されていました。2つの瓶に記された文字は、牛乳を販売していた業者と考えたので、調べてみることにしました。
「大阪驛 水了軒」はすぐにわかりました。「水了軒」とは、明治21(1888)年に大阪駅内の販売を許された業者で、大阪駅を中心に駅弁やパンなどの食品や飲み物の販売を手がけました。
また、太平洋戦争前まで東海道線を走る三等急行列車の食堂車(和食道)営業を行い、定食に瀬田シジミの味噌汁を提供するサービスを行っていました。このことから、椿谷遺跡から出土した「水了軒」の牛乳瓶は、大阪で販売されたものと考えられます。(個人的な思い出ですが、水了軒が販売する幕の内弁当である「八角弁当」は、ひとくちサイズのおかずが豊富で値段も比較的安価だったことから、大阪始発の旅行で必ず購入する駅弁でした。)

もうひとつの「石山三宅牧場」は、瓶の裏に電話番号が記されていたことから、太平洋戦争前に作られた滋賀県の商工名鑑(商業・工業にかかわる業者を記した名簿)や商工地図をもとに調べてみました。すると『滋賀県商工人名録』(昭和12年)に載っていることがわかり、さらに『大日本職業別明細図』(昭和11年)という大津市の商工地図に、大津店の場所と広告を発見しました。広告にある紋章が瓶のそれと同一だった(図1)ことから、この牛乳瓶を販売したお店であることを確信しました。

図1
図1

こうして、牛乳瓶を使った業者を確定することができました。しかし、さらなる疑問が浮かび上がりました。石山三宅牧場の牛乳瓶は、地元のお店なので大津の山中に落ちていても不思議ではないかもしれません。しかし、大阪で販売された水了軒の牛乳瓶が、なぜ大津の山中に落ちていたのでしょうか?この疑問に対して二つの理由を考えました。➀は、大阪で牛乳を買ったひとが、そのまま大津の石切場まで持ってきて捨てた、という考え方です。➁は、大阪で売られた牛乳瓶が再利用をへて大津市までたどりついた、という考え方があります。

➀も➁も正しいと言いきれる証拠がありません。しかし、➀の場合、証拠はありませんが、瓶はひとりあるきができないので牛乳を買った人が山中にはいって捨てたという考えが推測できます。また、➁の場合、瓶は使用後も洗浄して再利用できるので、かつてはラベルに記された業者と異なる業者や店舗が瓶を使用することがありました。その一例として、写真3をみてください。

写真3
写真3

これは、今から25年前に販売されていた飲み物です。よくみると、瓶の会社名と王冠に記された飲み物を詰めた会社名が違います。これは、飲み物を製造した業者が、他の会社の瓶を再利用して販売したためです。このような例があるので、もしかすると大阪で販売された牛乳瓶が再利用を重ねて大津まで来たのかもしれません。

結局、どの考え方が正しいのかわかりませんが、牛乳瓶ひとつでも様々な考えを巡らすことができます。みなさんも、この2つの牛乳瓶がなぜ山中に眠っていたか考えてみてはいかがでしょうか?

なお、夏休みの自由研究のテーマとしては、日本における牛乳や牛乳瓶の歴史などを調べてみると面白いかもしれません。特に明治時代以降に焦点を絞っても、ずいぶん面白い話がたくさんあります。なぜ瓶が導入されるようになったのか、1本あたりの内容量の変化などについてネットなども使いながら調べていくのも楽しいかも。ちなみに今回出土した瓶には、1.8竕(デシリットル)と書いてありました。これが何を意味するのか、なんで1.8みたいに中途半端な数字なのか、わかるかな~(笑)?

神保忠宏
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