オススメの逸品
調査員のおすすめの逸品 No.117 槍から弓矢へ -相谷熊原遺跡で出土した長脚鏃-
今回ご紹介する逸品は、ちょっと「けったい」な石鏃です。
石鏃とは、弓矢の矢の先端に装着されるもので、先端にもかかわらず「矢尻(鏃:やじり)」(※)と呼ばれています。考古学では材質もあわせて説明するため、石で作られた矢尻は「石鏃」と呼びます。発掘調査では木質の弓・矢柄などが残ることは稀で、石鏃(銅鏃・鉄鏃等もあります)だけが出土することが大半です。
さて、私が調査を担当した東近江市の相谷熊原遺跡は、すでにこのコーナーの読者の方ならご存じの遺跡でしょう。国内最古の土偶が出土した遺跡としてすっかり有名になりましたが、今回御紹介する石鏃こそが、その土偶(あるいは土偶が出土した竪穴建物跡やそこに残されていた遺物)の年代を決めるうえで、重要な鍵を握っていた出土資料だったのです。
地球の自然環境が温暖化していった今から15,000~10,000年前頃、冷涼な気候に適応していたナウマンゾウやオオツノジカなどの大形獣は絶滅し、シカやイノシシ・ウサギなどの中小形獣が温暖化という環境変化に適応して増加していきます。
私たちの祖先は、大型獣を狩っていた頃は槍(突き槍・投げ槍)を使っていましたが、動きの素早い中小形獣が狩りの対象へと変化していくと、槍よりも機動性に富んだ道具を使うようになりました。それが弓矢です。弓矢が日本列島に登場するのは14,000~13,000年前頃だと考えられていますが、槍と較べて飛距離が長くて精度が格段に高く、弓矢の登場が食料獲得上の大きな画期になったと考えられています。
今回ご紹介する相谷熊原遺跡の石鏃は、不必要なまでに抉りが深く(言い換えれば「かえし」が長い)、特徴的な形をしていることから、「長脚鏃」と呼ばれています。長脚鏃は、縄文時代草創期でも半ば頃という限定された期間にのみ使用されたことが、これまでの研究からわかっています。全体のプロポーションが縦長で細長いもの (写真1上・中段) と、ずんぐりとしたもの(同下段)とに大別できそうです。また、緩やかにカーブさせながら脚の先端へと至るフォルムは細かい造作で、心憎いまでの造形へのこだわり感じさせる、まさに「逸品」です(写真2・3)。長脚鏃のなかには、脚の長さが全体の半分以上というものもあり、そういうものについては、石器作りの上手な人が、持てる技術を最大限に発揮して作ったスペシャル品で、高い技術をシンボライズした作品だったのではないか、と想定する研究者もおられます。
長脚鏃は、少し専門的になりますが、縄文草創期(15,000~11,000年前頃)の爪形文土器が用いられる頃(13,000年前頃)のもので、その前後の時期には用いられません。爪形文土器は最初に厚手のものが作られ、次いで薄手のものが作られるようになることがわかっています。そのなかでも、厚手爪形文土器が用いられていた時期に長脚鏃も用いられていたことが、これまでの研究でわかってきました。
相谷熊原遺跡では、見つかった5棟の竪穴建物跡(うち1棟から土偶が出土)から出土した土器は、大半が文様の入っていない無文の土器でした。土器の新古関係は土器に施された文様を手がかりにしていることが多い考古学にとって、無文の土器は最も厄介な対象物です。調査当時はこれらの建物跡の年代を決めるのに苦労しましたが、長脚鏃が出土したことによって、これらの無文土器が爪形文土器と同じ時期のものだと想定できるようになりました。また、何点かの土器の表面に付着していた炭化物について炭素年代測定を行ったところ、約13,000年前のものであることもわかりました。長脚鏃の存在は、相谷熊原遺跡の無文土器が爪形文土器と同じ時期のものである可能性を示した、とても重要な資料だったです。
(松室孝樹)
※矢の先端なのに「矢じり(尻)」と呼ぶことに対し、違和感を持たれる方もおられるかもしれません。矢筒に矢を入れる際、日本では矢の先端を下にして入れることから、矢の先でありながらも「矢尻」という呼び名が広がったといわれています。ちなみに、英語ではarrowheadで、まさに矢の先端。取扱いの違いが反映されているのでしょう。
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