オススメの逸品
調査員のおすすめの逸品 No.14 遠くはるばる運ばれてきた土器―竜ヶ崎A遺跡出土土器―
今回は、琵琶湖の内湖の湖底遺跡で見つかった、遠くからはるばる運ばれてきた縄文土器の話です。
内湖は、砂堆などで琵琶湖と切り離されているものの、せまい水路で琵琶湖とつながっている水域で、かつては約40箇所を数えました。魚介類などの食料資源が豊富で、波の穏やかな内湖は長い間人々の生活の様々な場面で利用されてきました。しかし、現在その大半は干拓され、水田や畑などになっています。干拓工事は、戦中から戦後にかけて行なわれましたが、琵琶湖とつながっている部分を堤防で仕切り、ポンプで水をくみ上げました。結果、これが契機となって、内湖底で多くの遺跡が見つかりました。
近江八幡市・安土町・東近江市の境に拡がっていた大中の湖や小中の湖でも、多くの遺跡が見つかり、特に現在よりも琵琶湖の水位がかなり低かった縄文時代の遺跡が数多くあります。私が平成15年度に発掘調査を担当した安土町竜ヶ崎A遺跡も、そんな内湖の湖底にある縄文時代遺跡の一つです。
竜ヶ崎A遺跡は、織田信長の安土城があることでよく知られる安土山の西麓、小中の湖の東岸に立地します。以前、そのすぐ西側で弁天島遺跡を発掘調査していた私は、内湖の湖底にある縄文時代遺跡の面白さを知り、機会があれば再び内湖遺跡を調査したいと思っていました。前年度、竜ヶ崎A遺跡の試掘調査計画を知った私は、上司にその担当を志願しました。しかし、調査に出向いた私が現地で目にしたのは、畑に散乱する(ように私には見えました)白鳳期の瓦と須恵器でした。後で調べてみますと、ここは白鳳寺院「安土廃寺」の推定地でもあったのでした。しかし、気を取り直して(?)その畑で試掘調査を実施したところ、期せずして瓦とともに縄文時代晩期末の土器が大量に見つかったのです。
こうして、翌年、念願の内湖底にある縄文時代遺跡の発掘調査をすることになりました。しかし、広い面で掘ってみますと、試掘調査ではわからなかった、地面に掘り込まれた4つの穴が見つかりました。これらは、調査が進むにつれ、さらに古い縄文時代中期末の木の実を貯蔵する穴だとわかりました。ですが、貯蔵していた木の実は取り出されて無く、なかには縄文土器や石器、ニホンジカの骨、木片などが投げ込まれていました(写真1)。縄文土器は、残りのいいものが数多くありましたが、私が今回紹介する逸品は写真2の土器です。球状の胴部にラッパ形に開く頚部がつながる器形ですが、残念ながら上(口縁部)と下(底部)はなくなっていました。外側には隆帯と沈線で囲んだ磨消縄文帯で文様を描き、内面のナデ整形も丁寧で、この滋賀県ではほとんど見かけない特徴をもっています。
この縄文土器に似たものを探してみますと、どうやら東北地方に主に分布する「大木9式」と呼ばれるもののようです。詳しい方にみていただいたところ、使われている土や文様などから、東北地方ではなく、長野県・新潟県の信濃川下流域辺りで作られた可能性がある、とのことでした。これらの穴からは、地元で作った土器以外に、岐阜県西濃地域や関東地方など、同じ時期に東日本各地で作られたと考えられる土器もみつかっています。
縄文時代中期末は、東方から近畿地方へ多くの人々が移住してきたと考えられています。それは、遺跡の立地の変化や数の増加、さらに住居や土器などの道具の変化などに表れています。東海地方にも「大木9式」に似た土器が見つかっていますので、この土器は日本海岸経由ではなく、信濃川流域から南下し、東海地方から山を越えて運ばれてきたのでしょう。運び手である移住者たちは、現在の米原市辺りで丸木舟に乗って南下し、ここ小中の湖の竜ヶ崎A遺跡で上陸、最初のムラを作ったのではないでしょうか。さらに、さきほど見たように、使い終わった貯蔵穴にゴミを投棄する事例が、同じ頃の関東地方にはあるようですので、そういった習慣も持ち込まれたものと思います。
(小島孝修)
≪参考文献≫
『竜ヶ崎A遺跡』 滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会 2006