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調査員オススメの逸品第165回粉もんの立役者「石臼」

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写真1 粉挽き臼
写真1 粉挽き臼
写真2 曲谷
写真2 曲谷
写真3 関津遺跡出土の石臼
写真3 関津遺跡出土の石臼

「粉もん」は、私たちの日常の食生活にとって欠かせません。洋食ではパン・パスタ、和食では蕎麦・うどん・素麺が代表格ですし、話題のB級グルメでは、お好み焼き・タコヤキ・ヤキソバ・ラーメンがあります。もし粉がなくなると、これらのメニューは食卓から消えてしまいます。しかし、日常生活の中では、自分で食物を粉にする機会はほとんどなく、すでに製粉されたものを手ごろな価格で購入する場合がほとんどです。製粉が日常生活から切り離されたのは近・現代に入ってからで、それ以前は石臼をつかって、手間と時間をかけて自分で製粉していました(写真1)。現在、この道具を日常生活で目にすることはほとんどなく、民俗資料館の展示や、お庭の踏み石・オブジェになっているものをみかけるくらいです。では、この石臼という道具は、どのような歴史をもっているのでしょうか。
石臼は、鎌倉~室町時代ごろに、中国から日本に伝わってきたとされています。大きくは、お抹茶を作るための茶臼と、穀物などを粉にする粉挽き臼に分かれます。茶臼についてはすでに取り上げられているので、ここでのお話は粉挽き臼を中心にします。
滋賀県では、織田信長や浅井長政といった戦国武将たちが活躍した16世紀ごろから普及していたようで、彼らの居城であった安土城跡や小谷城跡からは石臼の破片が出土しています。写真3は大津市関津遺跡から出土した石臼です。
県内には、石臼を製作していた場所がいくつかありました。それらの中でも、米原市「曲谷」は石臼の有名ブランドでした。曲谷の集落は姉川の上流部にあり、集落からさらに上流で良質な花崗岩が採取できます(写真2)。この花崗岩をもちいて、古くから宝篋印塔・五輪塔などを製作していました。これらの石塔にくらべると石臼の生産開始は少しおくれるものの、江戸時代に入ると大量生産され、県内のみならず、隣接する岐阜県・京都府などにも供給されていたようです。しかし、大正~昭和の初めぐらいまでに機械製粉が普及すると、曲谷をはじめとする各地の生産地での石臼生産は終わりをむかえました。
石臼の登場は、日本人の食生活を大きく変えたと思います。なぜなら、さまざまな食材を非常に細かい粉に変化させることによって、多様な調理方法をもたらしたからです。麺類の普及にも大きく貢献したことでしょう。
さらに、乾いた素材でも,濡れたものでも製粉できることも特徴でした。米・麦・蕎麦・アワ・ヒエ・炒った大豆などの乾いた状態の穀物はもちろん、水をふくませた大豆をつぶしてお豆腐を作るにも石臼が用いられましたし、濡れた米をつぶして糊(のり)の材料にもしました。
現在の機械式の製粉機とちがって、石臼は製粉するさいに発生する摩擦熱を抑えることができるため、品質のよい粉ができます。石臼で挽いた黄粉は、とても良い香りがします。
このように、優れた製粉具なのですが、最大の欠点は材質が石のため非常に重いということでしょう。直径30㎝程の石臼だと、回転させる上臼の重量は20㎏を超えます。そのため粉挽きはかなりの重労働だったようです。長時間一人で回すにはかなりの力がいりますから、2人以上で挽けるように持ち手の形などに工夫が凝らされているものもあります。また、粉挽きは夜なべ仕事ですることも多かったようで、作業中の気を紛らわすための「粉挽き歌」が滋賀県の多くの地域で記録されています。その歌詞を見てみると男女が一緒に臼を回したことをうかがわせるものがあります。石臼は村で共有されることもありましたから、粉を挽く場は出会いの場でもあったようです。
(加藤達夫)

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