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調査員のオススメの逸品 第247回 ふだん使いの茶碗-大津市上田上牧遺跡の信楽焼丸碗
上信楽山地を上流とする、大戸川の下流20㎞の左岸側の低地に、大津市上田上牧遺跡があります。遺跡の西側の高所には、従来、農業を生業としていた現在の牧町の集落があり、八幡神社に奉納されている宝永4年(1707)の木札には、「牧の集落は、大戸川の土砂の流出が激しくなり、川に土砂が堆積し、田の排水が悪く稲が実らなくなり、家が浸水するようになったため、元禄2年(1689)から特に浸水のひどい家が山手に屋敷を移した」という内容が記載されています。また、水害の被害状況を膳所藩に届け出るために作成された絵図(真田家に原本があり、現在牧町の真光寺にその写しが保管されている)にも、享保8年(1723)および安永2年(1773年)に移住が行われたことが描かれています。
このため、この場所には調査前から江戸時代の集落跡があったと推定されていた場所でした。平成6~8年度に実施した発掘調査では、礎石建物(一部)・石組井戸・区画溝・石垣・大戸川氾濫の痕跡が見つかり、江戸時代中頃の山手に移住する以前の牧村の一端を知ることができました。
今回ご紹介する茶碗は、1773年以降の三回目の最終移住の時期に、破損したため捨てられたものだと考えられる喫茶用の茶碗で、一定量がまとまって出土したものです。
近代に急須で蒸らす現在の煎茶法が普及する以前は、茶は土瓶(どびん)などで煮出して飲んでいたようで、これらの茶碗は煎茶碗に比べると、少し大きく深めに作られています。口径(飲み口の部分の直径)は9㎝ほどで、底部に低めの小さい高台をもつのが特徴です。高台の外面以外には、透明の釉薬がかけられ、写真1のように鉄絵で草文を描くものと、写真2のように無文のものの2種類があります。
これらの茶碗を焼いていたと考えられる窯跡が、信楽でみつかっています。同時期に焼かれた茶碗の中には、丸碗のほかに、外面に鉄絵で「若松文」もしくは「根引き松文」を描いた「小杉碗」(こすぎわん)(図1)があります。窯跡から出土した土器を研究した畑中英二さんによると、この「小杉碗」は江戸中期以降のもので、江戸で数多く出土する反面、京都・大阪・奈良などでは出土例が少ない傾向にあるようで、当遺跡でも出土数はわずかでした。このように種類ごとに流通先が違った可能性があります。
上田上牧遺跡から出土した丸碗は、関東で好まれていた小杉碗より、文様が簡略化された碗で、農村の人達には比較手的買いやすい値段だったかもしれません。薄くて軽く、待ちやすいシンプルな形の碗は、農作業などで乾いた喉を潤すため、「ふだん使い」の茶碗として用いられていたと想像できます。
【参考文献ならびに図1の出典】
・畑中英二『信楽焼の考古学的研究』サンライズ出版2003年
(田中咲子)