オススメの逸品
調査員オススメの逸品 第225回 朽木盆-その独特の形と文様-
朽木は滋賀県の北西部に位置し、現在は高島市に属しています。安曇川の上・中流域を占め、若狭国小浜と京都をつなぐ道(通称:鯖街道、現国道367号)の街道筋として栄えました。鎌倉時代から江戸時代にかけて当地を支配していたのが朽木氏です。1553年に朽木元網は亡命中の13代将軍足利義輝や細川晴元らをかくまっています。また、1570年には、織田信長が越前の朝倉攻めで浅井長政に裏切られ、浅井の領地であった湖東を避けて朽木経由で京都へ撤退するのを助けるなど、歴史の舞台となりました。
朽木では、古くからその豊富な森林資源を活用して林業が盛んで、江戸時代には当地の木地師や塗師がつくる塗物が特産品として全国に知られていました。塗物に使われた材木は、トチ・ブナ・ケヤキ・クロマメ(ミズキ)・カツラ・イヅクメなどで、盆・椀・片口・鉢・高杯・菓子皿・杓子ほかの器種が製作されました。江戸時代後期には、領主の朽木氏が参勤交代で江戸へ向かう際に、将軍や幕府役人、諸大名家への贈物として持参しました。なかでも八寸盆は、1回あたり300~600枚と多量に用いられたことにより、朽木盆として全国ブランドになったと考えられています。
朽木盆には変わった形状のものがあります。盆は普通、底の外面が平坦なのですが、朽木盆には丸みを帯びたカーブを描くものが多くあるのです。一見すると不安定で使いにくそうに思われます。これは、盆を持ち上げるときに指を差し入れやすくするための工夫ではないかと言われています。また、漆描きされた文様にも大きな特徴があります。見込みには花紋やそれが使われた家ごとの家紋などが施されますが、16弁菊花文が描かれたものが多くあり、菊盆とも呼ばれます。松尾芭蕉が1675年に江戸で詠んだと思われる句に「盃の下ゆく菊や朽木盆」があり、天下に朽木盆の名が流布していたことが知れます。
菊花文は菊の御紋とも呼ばれる皇室の紋です。挽物をつくっていた木地師の間には、文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(844~897)が奥永源寺の小椋谷(東近江市蛭谷・君ケ畑)に隠棲していたとき、ここで木地技術を発案し地元民に教えたことにより挽物技術が発祥し、ここから全国各地へ挽物職人が移り住んだという伝説が伝えられていました。そして、この伝承は現在も木地業関係者のなかで受け継がれています。こうした親王が木地師職の始祖であるという伝承が、いつの間にやら自分たちは親王さんの子孫だと誇示するようになって、菊紋のデザインを用いるようになったのではないかと考えられています。会津の保城という山の中にいた木地師たちが持ち伝えた由緒書には、「惟喬親王が朽木の里におしのびなされたとき、丸盆に16重の菊の御紋をたまわったので、朽木盆の絵はすべて菊の紋ばかりを描くようになった」と記したものがあるようです。
かつては地元の旧家には必ずといってよいほどに所蔵されていた朽木盆ですが、民具ブームや骨董ブームにより買い漁られて散逸してしまいました。朽木盆は朽木資料館(無料。見学予約・問い合わせは高島歴史民俗資料館0740-36-1553まで)や、市場にある登録有形文化財に指定されている丸八百貨店横の木工所くっつき村(無料。基本的に土・日の午後オープン)で見ることができます。また、くっつき村では、地元の木地作家である太郎五郎(タラゴロ)さんが形状を復元した「朽木の盆」も展示されているほか、即売もされています。
筆者は半年前、ひょんな縁で太郎五郎師匠に弟子入りし、そこで朽木盆を知りました。見よう見まねで挽いてみましたが、底面のほのかな曲面を削り出すのが何と難しいことか。先は長い…