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調査員のおすすめの逸品 No.9 ぴかぴかの和同開珎-野畑遺跡出土の和同開珎-

大津市
和同開珎
和同開珎

これは、私が財団法人滋賀県文化財保護協会に勤めて間もない時のことです。
当時、大津市の野畑遺跡の発掘調査をしていました。野畑遺跡は大津市南部の瀬田丘陵の端にあり、近江国庁関連の遺跡であろうと考えられていました。調査の結果、奈良時代から平安時代の瓦窯、井戸、掘立柱建物、旧河道などが検出され、たくさんの遺物が出土しました。なかでも井戸からは、木製の斎串や土馬とともに数枚の古銭が出土しました。

野畑遺跡の井戸
野畑遺跡の井戸

みつかった井戸には、遺構検出面で直径約2mの大きさのもので、掘り進めていくと、深さ約1.5mで木製の井戸枠が現れ、横板蒸籠組(よこいたせいろうぐみ)と呼ばれる組み方であることがわかりました。板を横にして井桁状に組み上げていくタイプです。井戸枠の中には、井戸が廃棄された後に溜まったと考えられる水気を含んだ粘土質の土が堆積しており、非常に軟らかく危険な状態でしたが、溜まった土の状況を観察するために、私は井戸内の土を半分残して掘り下げていく決断をしました。井戸枠の内側の広さは、1辺1.2mくらいです。その半分といえば、1.2m×0.6mのスペースです。そのため、作業は掘る人と紐の付いたバケツで土を上に引き上げる人に分かれました。掘る人は、小柄で力の強い人が適任ですから、決して小柄ではない私は、引き上げ係を担当することになりました。2m程掘り下げたところで、さすがに危険を感じたため、土層の写真と土層断面を記録し、残した井戸内の半分の土を取り除くことにしました。余談ですが、断面に線を引くために井戸の中に入ったときの気持ちは、いつ崩れるかと冷や冷やもので、非常に心細いものでした。最終的に井戸枠は、全部で23~24段分重なって出てきました。深さにして約5mもありました。
で、井戸の怖い思い出ついでに・・・、ではなく、こちらが本題なのですが、同じ遺跡内の別の井戸から出土した遺物について紹介したいと思います。それは「和同開珎」です。この「和同開珎」が出土て目にしたときは、まさに息を飲みました。というのも、その「和同開珎」は、鋳上がり直後のようなピカピカの赤銅色をしていましたからです。ちなみに井戸から出てきた銭貨は、「和同開珎」をはじめとして万年通寶、神功開寶、隆平永寶など皇朝十二銭とよばれる銭貨でしたが、当時も今も同じで、遺跡を発掘調査して土の中から出てくる金属類は、ほとんど間違いなく錆びています。だから出土した銭貨も例に漏れず黒ずんでいました。しかし‥‥‥この「和同開珎」だけは他の銭貨とは違っていました。金属は、土の中や水の中では酸素に触れることでゆっくり酸化していき、結果、黒くなったり、緑青をふいてしまいます。なぜ「和銅開珎」の鮮度が保たれていたのでしょうか?その答えは、井戸中の土が粘土状になっており、いわば真空パック状態になっていたためと考えられます。
ピカピカの「和同開珎」は、私が喜んで眺めている内に、急速に酸化が進み、他の古銭と同じ色に変化していきました。今、「急速に」と表現しましたが、私には長い時間かかって変化したように思えました。ものの十数分であったと記憶しています。今考えても口惜しいのは、なぜすぐに写真を撮らなかったのかということです。だから、ここに記載されている写真は、黒ずんだごく普通の古銭でしかありません。
あの時の感動を、これを読んでくださった皆様に伝えられたかどうかは分かりません。しかし、黒ずんだ報告書の「和同開珎」の写真を見ると、調査当時のピカピカの状態を手にしたときの心のふるえとともに、その状態を写真として残せなかったことへの苦い後悔の念とが入り交じった複雑な感情が今でも心をよぎります。これが私の若かりし頃の思い出の逸品です。

(三宅 弘)

<参考文献>
「大津市野畑遺跡の調査」『平成4年度 滋賀県埋蔵文化財年報』滋賀県教育委員会 1994

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