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調査員のおすすめの逸品 No.10 無文銀銭なのに文字がある! -尼子西遺跡の無文銀銭-

甲良町
尼子西遺跡出土無文銀銭 (赤丸部分を下部に拡大)
尼子西遺跡出土無文銀銭 (赤丸部分を下部に拡大)

無文銀銭はこのシリーズの第3回目でも紹介されましたが、今回は違った角度から無文銀銭にせまってみたいと思います。
「無文銀銭」といってピンとくる人はあまり多くないと思います。字をみればお金、しかも銀のお金ということは想像できると思いますが、それがいつ頃のもので、その形までイメージできる人はかなり通といえます。歴史や考古学を研究している人の中にも「無文銀銭って何?」という人もいるほどです。日本の貨幣の中でも珍品の一つといえます。この「無文銀銭」、実は日本最古の貨幣です。日本で最初に作られた貨幣は「和同開珎」とむかし学校で教わったという方や何年か前に奈良県明日香村にある遺跡から、「和同開珎」より古い「富本銭」という貨幣を鋳造した遺跡がみつかって話題になったことを憶えている方も多いと思います。「無文銀銭」は、この和同開珎や富本銭よりも古い貨幣なのです。
『日本書紀』天武天皇12年(683年)に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という記事があります。この銅銭が富本銭、銀銭が無文銀銭と解釈されています。この文を読み解くと、「このたび、新しく銅銭(富本銭)を作ったのでこれを使いなさい。今まで使っていた銀銭(無文銀銭)を使ってはいけない」というようになります。無文銀銭が、富本銭より古いことがここからもわかります。それでは、なぜ無文銀銭はこうもマイナーな貨幣なのでしょうか。それは、この貨幣の形態的特徴によります。写真をみると、私たちが知っている昔の貨幣とはずいぶん違うことがわかると思います。「これ本当にお金?」、そうなのです。この見た目の違いこそ、無文銀銭をマイナーな存在にした最大の理由です。後の貨幣とは同列に扱われていなかったのです。しかも銭名が書かれていない(銭名がなかったため、無文銀銭という名が現在与えられている)。こんな無文銀銭、現在のところ近畿地方を中心に18遺跡(この内、なんと滋賀県は6遺跡)から出土しています。
滋賀県での出土地のほとんどは湖南地域ですが、今回紹介します無文銀銭は、湖東地域の犬上郡甲良町にある尼子西遺跡から出土した1枚です。この無文銀銭には二つの大きな特徴があります。一つ目は、平安時代の建物跡から出土したこと。ずっと大事に残していたのでしょうか。二つ目は、なんと文字が刻まれていたことです。細い線で、「伴」という字が刻まれています。もう一文字あります。「伴」とは中心の穴をはさんで、記号のようなものがありますが、「大」という字にも読めそうな感じです。無文のはずなのに文字が書かれていたのです。文字以外にも「×」や菱形状の記号などもあります。誰が何のために刻んだのでしょうか。「伴」とは氏族名?「大」と併せて{大伴」?想像は拡がります。実は、この尼子西遺跡のものと同じ頃、京都市小倉町別当町遺跡から「高志」という文字が刻まれた無文銀銭が出土していたのです。現在まで、文字が刻まれた無文銀銭はこの2点のみ、偶然とはいえ、なんと奇妙なことでしょう。尼子西遺跡出土の無文銀銭、珍品中の珍品です。

(内田 保之)

<参考文献>
『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書23-4 尼子南遺跡2・尼子西遺跡1』滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会 1996
今村啓爾『富本銭と謎の銀銭』小学館 2001

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