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調査員のおすすめの逸品 №277 私はだ~れ? -塩津おじさん-

長浜市
写真1 塩津おじさん線
写真1 塩津おじさん線

皆さんこんにちは、私の名前を教えてください。
土器の整理をしているお姉さんたちから「塩津おじさん」と呼ばれています。私は今からおよそ850年前の平安時代の終わりに塩津の街に住んでいました。自分の似顔絵を土師器の小皿(かわらけ)の内側に釘で彫り込んで描き、穴も開けペンダントにして首から吊るしていました。大きさは幅2.4㎝で4分の1ほどに割れてしまい、顔の一部分しか残っていません(写真1)。顔は眉間に寄せたまゆ毛、切れ長の目、穴を広げた鼻、ややへの字の口が描かれています。復元すると直径約10㎝の大きさで、京都産の上等な小皿です。割れてしまったのでゴミ(土器のかけらや欠けた漆椀、使い捨てた箸、カンナくず、汚物など)と一緒に捨てられてしまいました。私の分身は長い間土の中で静かに眠っていましたが、2014年9月国道8号線のバイパス工事による発掘調査で再び日の目を見ることなりました。ある日突然、竹のヘラで顔をゴソゴソとなぶられ目が覚めました。私の分身が850年目ぶりに覚めるとまずびっくりしたことに、当時足元にあった琵琶湖の水面がなんと背丈以上高い頭の上にあります。埋もれている間に1m以上も琵琶湖の水面が上がってしまっていました。

写真2 塩津おじさんイラスト
写真2 塩津おじさんイラスト

私の容姿を復元していただいたイラストで紹介しましょう(写真2)。身長はおよそ150㎝、小太りの体形です。頭に烏帽子(えぼし)をかぶり、着物姿で下駄履です。烏帽子と腰刀と腰袋は成人男性の必需品です。手には魚をぶら下げています。当時の成人男性は必ず頭に烏帽子をかぶっていました。烏帽子をかぶっていない成人男性は僧侶か共同体社会から疎外された乞食非人とみなされました。鎌倉時代の『東北院職人歌合絵巻』に双六賭博で負け身ぐるみはがされ丸裸にされた男が烏帽子だけ着けた姿で描かれています。烏帽子を取られることは「ふんどし」を取られることより恥ずかしいことでした。烏帽子にはいくつか種類があり貴族・上級役人・武官など身分の高い人が着ける正装用の烏帽子は立烏帽子で、重ね合わせた紙に柿渋を塗り仕上げに黒漆を施した立派なものです。私たち庶民は折烏帽子といい麻糸で織ったぺちゃんこな簡素なものを着けていました。近くの神社の堀に捨てられた起請文の木札にも、塩津から敦賀に烏帽子を運んだとする記録が書かれています。
腰刀は万能用具です。へぎ板を作ったり、土を起こしたり、布を裂いたり、魚をさばいたり、食事に使ったり、時にはケンカにも使いました。腰刀とセットの腰袋は主に火打石や小銭を入れていました。旅先では欠かせません。(発掘で腰刀は100本近く、火打金・火打石も出土しています)履物は下駄です。(200足ほど出土しています)裸足の人も多かった時代で、下駄は僧侶が履く上等な履物です。琵琶湖の水際でも足が汚れずに便利でした。手に提げている魚は越後から来た鮭です。塩津で鮭とは不思議に思うでしょう!(神社の堀に捨てられた起請文に「運搬を頼まれた魚の1巻も失くしません」と書かれた起請文があります。この魚は「1巻」の文字から鮭と思われます。また、東大寺の古文書や鎌倉時代の説話集には越前や越後の鮭が奈良や京都に運ばれていた記録があり、北陸の鮭が塩津を経由し都に運ばれる「鮭の道」があったと推測されています。)
「塩津おじさん」が生活をしていた当時の塩津の様子を紹介しましょう。(すべて見つかった遺構や遺物から推測したもの)塩津の街は春から秋にかけて、大量の物資を運搬する人々が行き交っていました。(冬場は雪で活動休止)北陸から船で敦賀に着いた荷物は馬に乗せられ深坂峠を越え塩津に着き、塩津港からまた船に積み替えられ琵琶湖を縦断して大津(坂本)から都に向かいました。逆に西国や都からの物資も北陸に向けて運ばれてきました。運ばれた物は米、魚、特産物などが奈良や京都の貴族や寺社の荘園領主に、西からは中国製の輸入陶磁器や布、土師器皿、漆器椀、ままごと道具のミニチュアセットなども運ばれてきました。
そのために琵琶湖をどんどん埋め立てて港を拡幅していきました。その時、埋め立てた土と一緒に私の肖像画土器もゴミとして捨てられました。塩津の街には造船所、製材所、鍛冶屋、塗屋、建具屋、油屋、小間物屋、呑屋、女郎屋、倉庫、馬屋、役所などが立ち並び、周辺にはそれらの職人や運送人、工人、商人、坊主、役人、庶民、子どもたちが住む民家がありました。時には遊行人も行き交いました。街には人や物があふれ喧騒として、泥棒やひったくりも横行し、街の辻や広場には定期的に市(いち)がたち、夜には松明が煌々とした夜店も出ました。川の向こうの神社では月に一度、運送業者が預かった荷物を安全に運ぶための起請文の祀りを行い、年に一度の祭礼には老若男女が着飾って参列しました。木札に書かれた起請文には草部行元(くさかべのゆきもと)・穴太武次(あのうのたけつぐ)・菅原有貞(すがわらのありさだ)・佐々木又安(ささきのまたやす)などの人物が登場します。私もこんな立派な名前が欲しいものです。
さて、私の職業ですが塩津の街を見回る下っ端役人のその手下といったところでしょうか。「塩津おじさん」は下半身がまだ見つかっていません。整理室のお姉さん!早く私の下半身を見つけて!・・つなぎ合わせて全身を復元してください。そうしたら私の名前もわかるかもしれません。(濱 修)
【参考文献】第60回企画展図録『塩津港遺跡発掘調査成果展』滋賀県立安土城考古博物館(2019年)

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