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調査員のおすすめの逸品 №278 この点は何の点? ―観音寺駒と朝倉駒の比較―

近江八幡市その他
図1:朝倉駒 駒の端に点
図1:朝倉駒 駒の端に点

滋賀県の観音寺城下町遺跡出土の将棋駒(観音寺駒)と福井県の一乗谷朝倉氏遺跡出土の将棋駒(朝倉駒)。同じ時期に織田信長によって廃城に追い込まれた城跡から出土した将棋駒は、よく似た形態を持ちながら大きく異なる箇所も見られます。その一つに朝倉駒(図1・3)にあって観音寺駒(図2)にない「点」の存在があります。「点」の謎を追って両遺跡出土駒の秘密を紐解いてみたいと思います。

織田信長によって築かれた安土城がある近江八幡市(旧安土町)の安土山は、北に大中の湖の干拓地を望む風光明媚なところです。安土山の南東には西国第32番札所の観音正寺が建立された繖山があります。繖山の山頂には佐々木(六角)氏の居城である観音寺城が築かれ、その南側に広がる平地に城下町が作られました。

図2:観音寺駒
図2:観音寺駒

観音寺城下町遺跡は、現在の石寺集落を含む一帯に存在したと考えられる16世紀の遺跡で、将棋駒が出土したのは観音正寺から南にまっすぐのびる参道に沿った場所です。
将棋駒は全部で13点見つかりました。王将1点・飛車1点・金将3点・銀将2点・桂馬2点・歩兵4点の6種類の駒が出土していますが、あと角行と香車が見つかれば全種類の駒がそろいます。
駒の文字は墨を使い比較的きれいな文字で書かれていますが、銀将の裏には「金」の一文字が書かれ、桂馬以下の駒は「金」を崩したとみられる文字が一文字確認できます。また歩兵の裏側は、現在よく見られる「と」ではなく「金」なのですがかなり崩されており、「今」か「令」のようにも見えます(図2)。駒の大きさは、王将が最も大きく歩兵が最も小さく細く作られています。
観音寺駒の年代は、近江に侵攻した織田信長によって攻められた六角氏が、城を捨てて甲賀へ逃げのびる永禄11年(1568年)より以前のものであると考えられます。

図3:朝倉駒 と金(歩の裏)は点がある
図3:朝倉駒
と金(歩の裏)は点がある

観音寺駒とほぼ同じ年代の将棋駒に朝倉駒があります。朝倉駒は日本で初めて一つの遺跡から大量に出土した将棋駒で、昭和48年(1973年)に朝倉義景の館跡の周囲を巡る堀から174点もの駒が見つかりました。朝倉氏は織田信長に攻められ、天正元年(1573年)に滅亡しています。義景館の堀から出土した将棋駒は、その少し前の永禄のころ(1558~1570年)のものであると考えられています。
朝倉駒では王将(玉将)や飛車、角行などの駒は大きく幅広く作られていますし、香車や歩兵などの駒は細長く作られており、観音寺駒とよく似た形態であることが分かります。朝倉駒には黒漆で書かれた文字や、墨書後に文字の部分を彫りこんで作られた駒などが見られますが、これ以外に両者が大きく違う点が1つあります。それは、駒の端に点が打たれている駒が存在することです。この点は何でしょうか???(図1・3)
実は、この点は駒の動きを示したものなのです。奈良県の興福寺で見つかった平安時代後期の駒が、現在最古の駒と言われています。古代から中世にかけて将棋を指せる階層は、王族・貴族や僧侶が中心であり、後に上級武士が加わる程度でした。それが中世の後半頃(だいたい16世紀中頃)になると庶民クラスの人も将棋の相手をしていることが貴族の日記に現れてきます。つまり、16世紀に将棋人口が大きく増加したということが言えます。ということは、文字の読めない人々にも理解のできる駒が制作されることも納得できるものと思われます。
現在でも、漢字の読めない外国人などに将棋を教えるときには、進む先を示した駒を使用したり記号や絵柄の書かれた駒を使用したりしています。つまりこの将棋駒の点は、初心者向けの駒であったと考えられます。
観音寺駒には残念ながら点の書かれた駒は見つかりませんでした。墨で文字の書かれた駒が出土しただけの観音寺駒に対して、黒漆で書かれたり、駒に掘り込まれた文字の見られる朝倉駒の方が、将棋の文化としてはより先進的であったということでしょうか?

(三宅 弘)
参考文献
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会(2000)『観音寺城下町遺跡』(ほ場整備事業関係遺跡発掘調査報告書27-3)
福井県教育委員会・福井県立朝倉氏遺跡資料館(1979)(『特別史跡一乗谷 朝倉氏遺跡発掘調査報告書Ⅰ』)

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