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調査員のおすすめの逸品 №286 日本初のオイルタンカー琵琶湖に就航する-塩津港遺跡出土常滑焼大甕
琵琶湖最北端の港「塩津港」はかつて京と北陸を結ぶ重要港として大変栄えたところでした。最近行われた発掘調査によりその実態が少しずつわかるようになってきました。その一つがオイルタンカーの就航です。
12世紀の初め頃、常滑焼(愛知県常滑市、中部国際空港-セントレアのあるところ)の大甕が登場します。この甕が画期的な容器なのです。
それまでは大量の液体を長期間貯蔵するのに適切な容器がありませんでした。板を接ぎ合わせ箍(たが)で締めて作る「結い桶」(酒蔵で使われた大きな樽など)が、一般的になるのは数百年後の室町時代になってからです。焼き物としては還元焼成した青くて固い焼き物、須恵器がすでにありました。大きな甕も作っていたのですが残念ながら、この容器は液体を入れると少しずつ、じんわりと漏れるのです。満タンにしたはずなのに、1年後には空っぽになってしまうような代物なのです。そこで登場したのが「焼き締め陶」の常滑焼です。高温で長時間焼成したその焼き物は、固く、ち密に焼き締まり、自然釉が表面を覆います。出来上がると液体を漏らさないという画期的な製品になったのです。液体を大量に保管できる容器が出来上がり、大ヒットしました。大きなものは1石入り(約150㎏)というものも作られました。
その画期的な焼き物である常滑焼の大甕が塩津港遺跡(長浜市)の発掘調査で大量に出てきたのです。京都の町中をもしのぐ量の遺物が出てきた塩津港遺跡ですが、中でも常滑焼の甕は多く、800㎡ほどの広さの調査でしたが数百点に及ぶ数の大甕片が出てきました。
塩津港遺跡から出てきた大甕は何を表しているのでしょう。商品として流通させていたとすると京都に送るのにわざわざ塩津を通過させる必要はありません。かといって北陸方面にそれだけの需要も見込めない。となると、甕は塩津での需要品であったことになります。
塩津では常滑焼の大甕を使って、それまでは困難であった大量の液体の保管、貯蔵、そして運送を始めたのです。液体が商品として動き出したのです。酒は地産地消が基本でそれほど遠くまでは運ばれず、また長期間保存できるものでもありません。流通商品として最も可能性のある液体は油です。当時、燈明が普及し始め、その燃料となる燈明油が動き始めたのです。年中行事絵巻(12世紀頃)にみられるように外を照らすのは松明(たいまつ)、室内の明かりは燈明皿に油を注ぎ、芯を立て、火を灯した時代が来たのです。室内灯に必要な燈明油は以後莫大な権益を生むことになります。原料は荏胡麻とか椿などです。塩津ではこれらの原料から油を採って集めて、京都に運んだのです。
油を満タンにした大甕は重くて運べるものではありません。しかし、塩津には船があります。常滑焼の大甕を備え付けた船が、甕に油を満タンにして京都に向かったのです。まさにオイルタンカーというわけです。
塩津港遺跡からは、常滑焼の大甕の初期の段階のものから大量に出土します。中にはプロトタイプではと思われるような最初期のものもあります。常滑焼は漏れない大型容器とし塩津港で認知され、使用され大ヒットしていくのです。まさに逸品というべき品物です。そしてそのヒット商品をほかの産地がただ指をくわえて見ているはずがありません。越前焼そして信楽焼でも常滑焼の技術を取り入れた焼き締め陶の生産が始まっていきます。(横田洋三)