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調査員のおすすめの逸品 №339《滋賀をてらした珠玉の逸品⑯》小さな小さな「小銅鐸」ー栗東市下鈎遺跡ー

栗東市

記憶にのこる遺物

写真1 小銅鐸出土状況詳細(南から)
写真1 小銅鐸出土状況詳細(南から)

今回は,少し昔話になってしまうのですが,いままで発掘調査に関わってきたなかで記憶に残る遺物の一つである,栗東市下鈎(しもまがり)遺跡から出土した小銅鐸を紹介することにしました。この下鈎遺跡の発掘調査は,平成9年度~平成14年度(1997年度~2002年度)にかけて,6年間にわたって実施されました。平成9年度の調査は入社して2年目の私が最初に任された大規模な発掘現場であり,それ以降4年間(平成9・10・11・14年度)にわたり発掘調査を担当することになりました。お話を進めるに先立ち,下鈎遺跡について説明しておくことにしましょう。

下鈎遺跡
下鈎遺跡は,JR琵琶湖線の栗東駅と草津駅との間の東側一帯に広がり,その東端は東海道新幹線あたりまで及ぶ大規模な遺跡です。今までに栗東市教育委員会・公益財団法人栗東市スポーツ協会等によって地道な調査が続けられた結果,縄文時代から近代にいたる複合遺跡であることが判明しています。とくに弥生時代中期後半頃と後期後半頃の二時期には,それぞれ大規模な集落が形成されており,湖南地域の中心的な集落であったと考えられています。

見つかった小さな「銅鐸」
下鈎遺跡の発掘調査を担当して2年目,平成10年度の調査では,円弧を描きながら平行する3条の溝を検出しました。この溝は前年度の調査でも検出しており,少なくとも80m以上続くことを確認しました。弥生時代には,ムラの周囲を溝で囲んだ「環濠集落」の存在が知られるので,これら3条の溝も環濠ではないかと考えていました。溝の中から大量の弥生土器が出土しており,その特徴から弥生時代中期後半頃(紀元前後)に機能していた溝であることも分かりました。

写真2 小銅鐸出土状況(中央付近のやや褐色の部分)
写真2 小銅鐸出土状況(中央付近のやや褐色の部分)

さて,この溝を順次掘り下げていったのですが,3条のうちの真ん中の溝(溝2)を掘削し始めた頃,掘り下げ作業にあたっていた作業員さんが「銅鐸みたいなものが出た!」と知らせてくれました。急いで出土した場所に向かうと,溝の表面近くに,小さな小さな「銅鐸」が少し斜めに傾いているものの,ほぼ立った状態で姿を見せていたのです。作業員さんが丁寧に掘り下げてくれたので,ほとんど無傷の状態だったのは幸いでした。「銅鐸」の周囲は,銅成分が溶け出したせいか,褐色に変色していました。重要な遺物だとすぐに理解できましたので,ただちに出土した状況を図面と写真で記録して,慎重に取り上げました。(写真1、2)
持ち帰った「銅鐸」を早速計測したところ,高さ約3.4㎝・重さ5.2gでした。両側面と上面には型持たせの穴が2孔づつあり,きちんと鋳型で鋳造していることも分かりました。(写真3)
その後,この「銅鐸」の出土を記者発表することになりました。発表にあたり「銅鐸」の詳細な図面を作成したり,遺物写真を撮影したり,類例を検索したり,銅鐸研究者にご指導をいただいたり,準備を進めていきました。ちなみに「銅鐸」は,私が図面を作成し終わると収蔵庫に保管され,その後博物館で展示されました。広く公開することが大切であると理解していましたが,あっという間に遠く離れてしまうようで,寂しく感じたことを覚えています。

写真3 下鈎遺跡出土小銅鐸
写真3 出土した小銅鐸

小銅鐸と銅鐸
ここまで「銅鐸」と括弧付けで表記してきました。これは,下鈎遺跡例のような小さな「銅鐸」が中・大型のいわゆる銅鐸とは異なるものとされ,「小銅鐸」と呼び分けられているからです。出土場所からみても,中・大型の銅鐸は人里離れた山裾等に単独で埋納される事例が多いのにたいして,小銅鐸はムラの住居内や溝・水辺付近から出土する傾向があります(これは下鈎遺跡例も該当します)。さらに,小銅鐸は,銅鐸の祭りとは別の低位の祭祀に使用されたとみる意見もあります。銅鐸は弥生時代を代表する青銅製祭器ですが,小銅鐸は小型の銅鐸というよりも,その模造品―銅鐸形銅製品(銅鐸の形を模造した銅製品)とでもいうべきものです。
さて,下鈎遺跡出土小銅鐸ですが,皆さんのお力を借りて,無事に記者発表を終えることができました。ただ,この小銅鐸は現在知られている小銅鐸の中でも最も小さい例―日本最小の小銅鐸なのですが,その点を新聞記者さんにお伝えしたところ,ちょっと面食らったような顔で「最小ですか・・・」と言葉を濁されていました。どうやら「最大」や「最古」にくらべて,インパクトに乏しいからか,あまり響かなかったようです。

水のマツリとの関係
とはいえ,大きさがそのもの自体の重要性と必ずしも相関するわけではありません。小さくても,この小銅鐸は興味深い事例だと考えます。先述のように,出土したのは「環濠」と目される溝でした。この溝2には細い溝が2条取りついており,それらは大きな穴(土坑)に接続していました。この土坑と重複して掘立柱建物も見つかりました。そして,小銅鐸は細い溝と溝2との合流地点付近で出土したのです。
これら掘立柱建物・土坑・細い溝は別個のものではなく,意図的に水を土坑に溜め,余水を細い溝から溝2に流すという「導水施設」というべき特別な施設を構成していたようです。そして,掘立柱建物の中では水を用いた祭祀が実修されていたと想定されます。(写真4)

写真4 導水施設遺構
写真4 導水施設遺構

こうした下鈎遺跡例の性格を考えるうえで参考となるのは,小銅鐸の出土例の一つである,弥生時代後期頃の井戸付近から出土した岡山県下市瀬(しもいちぜ)遺跡例です。ここでは,井戸に関わる祭祀に小銅鐸が用いられたことが推定されています。下鈎遺跡でも,導水施設の建物では水を用いた祭祀が想定できますし,その施設の近辺で小銅鐸が出土した点からみても,小銅鐸は水にかかわる祭祀のアイテムだった可能性が高いと考えています。
このように小さな小さなモノなのですが,私にとっては思い出深い逸品です。ちなみに,滋賀県立安土城考古博物館の第1常設展示室には,大きな銅鐸の脇にこの小銅鐸が展示してあります。巨大な銅鐸に目を奪われ,その横の小銅鐸にお気づきにならない方も多いのではないかと思いますが,機会があれば,ぜひ探し出してみてください。
(辻川哲朗)

<参考文献>
辻川哲朗・重田勉(2003)『下鈎遺跡』(中ノ井川放水路事業に伴う発掘調査報告書1)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会
辻川哲朗・久保田ひかる(2005)『下鈎遺跡』(中ノ井川放水路事業に伴う発掘調査報告書2)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会
辻川哲朗(2001)「下鈎遺跡のおける「導水施設」状遺構について」『紀要』14,財団法人滋賀県文化財保護協会
辰巳和弘(2008)「水と井戸のまつり」,設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編『弥生時代の考古学7 儀礼と権力』同成社

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