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調査員のオススメの逸品 №255 はたして本物か?―大津市関津遺跡出土の「二朱銀」と骨董市の「二分判金」―

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ある日、私は骨董市へ行って様々な骨董品を眺めていました。実は、趣味である将棋の盤と駒を探しに出向いたのですが、将棋セットを探し当てる前にある品物に目が留まりました。そこには、たくさんの貨幣が小さな容器に雑然と入れられていました。額面が高いものから低いものまで色々あったのですが、長方形の小さな貨幣が気になりました。貨幣の表面には上下に桐極印が打たれ、極印の間には「二分」と右から横に打たれています。裏面には「光次」の文字とその下に(花押)が縦に打たれています。

写真1 骨董市の二分判金
写真1 骨董市の二分判金

これは、「二分判金」とよばれる貨幣で、これ2枚で小判一両と交換できるものです。この「二分判金」は「分」の上部の「八」の右下部分が外方に流れずに止められているもので、「止め分」と呼ばれるものです。「止メ分」の「二分判金」は、従来明治時代の鋳造と考えられていましたが、幕末のものも存在することが確認され、幕末から明治にかけて鋳造されたのではないかという考えもあるようです。

この貨幣は、カタログと比較した大きさや文様の違いなどから「明治二分判金」と呼ばれる明治元年~2年(1868~ 69年)に鋳造された金貨だと考えられます。「明治二分判金」は『日本貨幣カタログ2018』(2017年)によれば、重さ3gであり、品位は金22.3%、銀77.7%のものと書かれています。骨董市の「二分判金」は、縦約1.9cm、横約1.1~1.15cm重さ2.4gくらいで、カタログと比べても大きさは変わらないのですが、重さが2割ほど軽いものでした。

世の中には、本物に混じって出来の良い偽物やとんでもない偽物がたくさん出回っているという事をよく聞きます。重さがカタログの数値より2割も軽く、しかも紙箱に山積みに近い状態でまとめて入れられてあったような扱いを受けているこの貨幣は、偽物ではないかと疑いました。

結局、買い求めたのですが、「二分判金」を買ったのは、以上のことが主な理由ではなかったのです。今を遡る13年前にこれとよく似た長方形の貨幣(こちらは銀貨)を発掘しました。調べてみると、「□南鐐二朱銀」と呼ばれているものであることが判りました。最初の□は、「新」か「古」が入るのですが、如何せん残りが良くなく表面がひどく剥落して文字が良く読めませんでした。

写真2 関津遺跡出土の二朱銀
写真2 関津遺跡出土の二朱銀

「南鐐」とは、良質の銀すなわち純銀を意味する言葉で、南鐐二朱銀とは江戸時代初期に発行された良質の二朱銀を指します。南鐐二朱銀は「古~」が明和9年~文政7年(1772~1824年)に、「新~」が文政7年~天保元年(1824~30年)に鋳造されたもので、銀の含有量が約97.8%あるものです。当時はこの貨幣8枚で小判一両と交換できたので、表面には「以南鐐八片 換小判一両」の文字が縦二列に打ち出されています。それで「南鐐二朱銀」と呼ばれているのです。

出土した貨幣は当然本物の銀貨であろうと考えられます。ところが、ここに大きな疑惑が持ち上がりました。銀は長期間空気にさらされ続けると、表面に黒い幕を生じさせます。銀イオンは空気中に含まれている硫酸イオンと結合して硫化銀となり、表面を覆うのです。これはアンモニアを水で薄めた溶液で拭いてやれば元の美しい輝きを取り戻すことが出来ます。つまり、一般に土中の銀製品は表面のみ薄く錆化すると考えられるのですが、この「二朱銀」は表面の錆化が激しく、一部が剥落してしまいました。果たして、この貨幣は本物の銀貨なのでしょうか?

金属製品の分析には蛍光エックス線分析という方法があり、どのような元素が何パーセント含まれているのかをすぐに調べる機械があるので、チャンスを見つけて分析にかけてみたいと思います。

(三宅 弘)

参考文献
日本貨幣商協同組合編2017(『日本貨幣カタログ』2018年版)

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